おやときどきこども

おやときどきこども
おやときどきこども
鳥羽和久
ナナロク社
2020年6月25日
34件の記録
  • mimiii
    mimiii
    @mimiii
    2026年6月27日
  • 斎藤は、統合失調症の治療で行われるオープンダイアローグの中では「「出来事」として意思決定が起こってくる」と語っています。そこでは、誰が決定したかという形ではなく、もっと暖味に、その場に生起した出来事として自ずと決定がなされます。そして決定がなされたことによって、事後的に主体化がもたらされるのだと彼は言います。 きっと、選択や決定の正しさというのは、そのことが為されてみて初めて、それ以外はありえなかったというような認識の形で現れるのでしょう。
  • おやときどきこども
  • いまの親世代の多くは、日々の暮らしが土から切り離され、心身ともども根なし草になった最初の世代に育てられました。かって日本の高度経済成長期に親になった世代は、農村で育った自分の親のやり方が自分の子にはまったく通用しないことに悩んでいました。そのころの日本社会は、旧来の価値観をなぎ倒してでも日々進歩していかなければ時代から取り残されてしまう、そういう強い焦燥に駆られた人にあふれた時期でした。 その焦りは、子育てにも知らず知らずのうちに反映されます。そうやってイライラを抱えた親から、一方的な言葉のシャワーを浴び続けて育った人も少なくありません。 こうして、身体に根づかず、しかもどこか強迫的な言葉を与えられ続けることによって、十分な自覚がないまま傷ついてきた人たちがたくさんいます。その人たちは、自分が何をされたかわからないまま、良かれと思って子どもに同じことをしてしまう傾向があります。だからこそ、自分自身はこれまでに何を損なってきたのか、そしていまも何を失い、失うことで逆に何を得ようとしているのかを立ち止まって考えることは、親子関係にとどまらず、私たちが人と関係を築いていく上で必要なことです。
  • 子育ては解決すべき何かなのではなく、ただ「今」を味わうものなのでしょう。
  • 自分を離れて自分を見ることで、やがて一層よく自分に戻ることができます。そうすることで内面を静観し、味わうことができるようになります。 苦しい感情が湧いたときには、相手を責めるのでも、卑屈になるのでもなく、ただ自分の感情をそのまま味わうことから見えてくるものがあるかもしれません。そして、自分の掌を見つめながら「これでいいのだ」とひとり小さく頷くことができれば、その人はようやく一歩ずつ自分の道を進むことができるでしょう。 自立とは、社会の中で他の力を借りずに自分の力で生きていくことではなく、むしろ不安定な社会の中で自分の足場を確かめっっ歩む過程の中から自ずと表出するものだと思うのです。「依存先を増やすこと」が自立であるという話もありますが、増やすまでもなく、私という存在に初めから多くの人たちの影が織り込まれています。その影たちを含んだ「私」を味わうことから、自分の道が始まるのだと思います。
  • 自分自身とその周囲に広がる世界を解釈し味わうためには、ストーリーがあったほうがよいのでしょう。そのほうが幸福だったり、自分が安定して生きやすかったりしますから。でも、ストーリーが一面的なものの見方によって成り立っていることを忘れたときに、私たちはストーリーに支配されます。そして、自分自身に、または他者に、攻撃を仕掛けるようになります。 だから、ストーリーに寄りかかりながらも、そのストーリーが絶対的なものではないこと、そして他のストーリーだってありえたかもしれないこと、私たちはいつもそれを心の底で感じながら、人生を味わっていきたいものです。
  • そうやって原因をひとつに還元すること自体、因果論の影に暖っていると言わざるを得ないのです。私たちは、ストーリーによってそれ自体に近づくことはできても、それ自体を捉まえることはできません。ストーリーは個人にとっての支えであり、それがいかに救いではあっても、決してほんとうではないのです。その見方を忘れてしまうことは危険です。なぜなら、それは自分の多様な生の可能性をストーリーに乗っ取られ、奪われてしまうことと同義だからです。 その意味で礼太郎くんは賢明だと思います。彼はひとつのストーリーを手に入れようとしたとたんに、それが手もとからあっけなくこぼれてしまうところまで見つめているからです。自分にとっての真実がどこにあるのかわからない、そうと言いながら顔を歪めた彼の正直さを思い出すたびに、私は胸が苦しくなると同時に、どこか厳粛な気持ちになります。
  • 岡本かの子 短編「快走」より 「自分独特の生き方を発見した興奮に」
  • それでも、道子はいまも私たちの間で生き続けています。あの日、堤防の上を快走した道子を、そして、つづり方と出会って現実という景色を発見したもうひとりの道子を、子どもたちの中から日々発見します。 子どもたちは、大人が設定したミッションの間を縫って束の間の遊びに興じます。 それは子どもたち独特の、決して大人が奪うことのできない才能です。そうやって遊びを忘れない子どもたちの前には、自ずと世界が開けていきます。それを目撃するたびに、私はいつも新しく子どもたちに出会い直したような気持ちになります。 子どもたちを見てみたら、一人ひとりの素晴らしさに気づいた。私はそんなわかったような話をしたいわけではありません。そうではなくて、意味なく当たり前のように転がっている無数の「自分独特の生き方」を目前にしたときに、心の底から湧き上がってくる感動について話がしたいのです。そんな思いで、私はいまこの本を書いています。
  • 物語りの始まりはいつも、漂う言葉の断片であり、意味の判然としない詩のようなものなのでしょう。彼がそういうわからなさをそのまま抱えてとなりに座っていたことは、とてもありふれたことであり、でも一方で、きっとたった一度、あの夜だけのことなんだろうという気がします。 物語りとして完結しないままたよりなく生きること、つまり、語り尽くせないものや語りえないものを抱えたまま、偶然性に身を晒しながら生きることは、共感を前提としたコミュニケーションの現場から遠く離れた、自分独特の喜びを日々発見するような生き方なのだと思います。律くんのこれからに心からのエールを送りたい気持ちです。
  • これからの時代、さまざまな場面において問題の本質と呼ばれるものたちは、もっとずっと見えにくくなっていきます。ジェントリフィケーションとは、きれいごとで世界が覆い尽くされるという意味の標語です。とすれば、私たちはもっと「共感」というきれいごとを疑ってかかるべきではないでしょうか。
  • 人間は「コミュニケーション」を拒否することにおいて人間そのものである場合もある。(大岡信「言葉の力」「詩・ことば・人間」)
  • かって、哲学者のハンナ・アーレントは「悪人というものを撒定したその瞬間に、悪の本性が隠される」と言いました。つまり、加害者という「悪人」を確定させて被害者に謝罪させればそれで解決したような錯覚が生まれますが、実際にはいじめというのは学校や学級の構造の問題であり、加害者だけを罰したところで、その構造にアプローチしなければ、決していじめの本性は見えてこないのです。そうやって、安易な謝罪で終わらせようとするから、再び同じことが繰り返されます。
  • tabata
    tabata
    @totangasenbei
    2026年5月26日
  • 霞の中
    @nrm-2601
    2026年4月28日
  • みらい
    みらい
    @ahahahaha00
    2026年4月27日
  • ぽてこ
    @potepote
    2026年2月22日
  • さがみ
    さがみ
    @sagamimochi
    2026年2月4日
  • みそしる
    みそしる
    @miso_soup
    2026年2月2日
  • 霞の中
    @nrm-2601
    2026年1月12日
  • 白米
    白米
    @hakumai
    2025年12月24日
    すがるように手に取った本。一回読んだだけでは難しい部分もあった。再読したい。
  • 白米
    白米
    @hakumai
    2025年11月27日
  • zommer
    @zommer
    2025年10月8日
  • 추봉선
    추봉선
    @pongseon
    2025年3月9日
  • はや
    @hunhun
    2025年3月7日
  • ほんだけ
    ほんだけ
    @book_only
    2025年3月6日
  • なほこ
    なほこ
    @pyon7070c
    2025年3月5日
    受験生の息子の扱いにくさから、積読の山からつまんで読んでいた
  • Masayuki Kojima
    @myrskj
    2022年12月13日
  • 私のような、子どもがいない人にも。 鳥羽先生みたいな人に子どもの頃に出会えていたら、どんな大人になれたんだろう。と思っている時点でもうダメだと気づく。
  • natu
    @fummm5723
    1900年1月1日
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