なぜ書くのか

25件の記録
- 🐧@penguin2025年9月3日読み終わった4章、パレスチナを訪れた記録。 コーツは出世作「賠償訴求訴訟」でアメリカは過去の奴隷制に対して黒人コミュニティに賠償すべきという主張を展開しているが、その論拠としてドイツのイスラエルに対する賠償を挙げた。が、これはイスラエルによるパレスチナ占領を踏まえていないという批判を受けた。この批判がパレスチナを訪れる契機となっている。 ホロコーストからのユダヤ人国家建設、という物語にあらゆるところで触れてきたアメリカ人が、パレスチナのことを知った時にそれを認めるのがいかに難しいかが、コーツ自身の動揺から伝わる。それはイスラエルがパレスチナ人に行っていることとアメリカが黒人たちに行っていることの相似、そしてそれを知らなかったことへの痛みとともに書き進めていく。 コーツでさえそうなのだと思うと、アメリカとイスラエルのつながりってなんて強いんだろうと気が遠くなる。 訪れたのは2023年夏。この時点で、パレスチナの痛みについて限りなく言葉を尽くしているように思える。現在のジェノサイドは本当に、表現できる言葉などないような惨劇なのだと改めて思う。 p161 "私が目の当たりにしたこの取り組み、つまり考古学を援用し、古代の遺跡を破壊し、パレスチナ人を家から追放することは、アメリカ合衆国の具体的な認可を受けていた。ということは、それは私の認可を受けていたことを意味する。これは別の国によってなされる別の悪行だというにとどまらず、私の名のもとに行われた悪行でもあったのだ。" p174 "この訪問の終わりまでに、私は「ナクバ」を、ジム・クロウや植民地主義、アパルトヘイトといった類似のものを超えた特別なものとして理解するようになっていた。それはたんに警察があなたの息子を撃つことだけではなく(それもありうる)、たんなる人種差別的な監獄制度でもなく(それもここには存在する)、たんに法の前での不平等でもない(それも私の目に入る至る所にあった)。ナクバは、そういったやり口のどれもが役立ったものである——すなわちホームの略奪であり、それは身近なものでもあり恒久的なものでもある略奪である。"
- 🐧@penguin2025年9月2日読んでる3章。自身の著作『世界と僕のあいだに』がサウス・カロライナ州のメアリーという教師の授業計画から強制的に排除されようとしていることを知り、その教師に連絡を取る。 アメリカの禁書運動は逆説的に言葉にどれほどの力があるか、どれほど言葉が恐れられているかを証明している。そのことを、メアリーとその支持者たちの運動と著者の体験を「書くこと」で露呈させる。 p76 二〇二〇年の夏の重要性を払いのけようとする衝動は理解できる。「人種的正義についての全国的な対話」や数多くのテレビの特集やドキュメンタリー、さらには抗議活動そのものさえも無意味だと切り捨てたくなる気持ちもわかる。私たちのなかの一部の人びとは、政策の変化に反映されなかったのを見て、その運動自体が無駄だったと思うかもしれない。けれど、政策の変化は終点であって始まりではない。重要な変化が生まれるのは、私たちの想像力とアイデアのなかでだ。 p80 執筆を始めた頃の私には、白人を読者として意識することを極力避け、彼らを頭のなかで単純化し、「翻訳」しようという誘惑に抗うことが必須だと思えていた。それは正しかったと思う。けれど、今回これまでで驚きなのは——喜ばしい驚きではあるが——実際には翻訳は必要ないし、深く掘り下げてゆけば自ずと人間性が明らかになるということだった。ルールにあるように「具体を通って全体へ達せよ」。
- 🐧@penguin2025年8月31日読み始めた読みはじめた。文章の強靭なしなやかさに惹かれる。翻訳でしか読めてないけどきっと原文もリズムがいいんじゃないか。力強く、背筋を正される。 この本の導入的な位置付けでもありそうな1章、自身のルーツを探るセネガルへの旅を描いた2章まで読む。黒人の文化や歴史にそこまで詳しくない自分にとっては複雑なところもある。しかし難解な書き方ではなく、豊かさと悲しみが伝わってくる。 "私たちはもっと深い何ものかによって引き寄せられていたのだ。 その何ものかとは、私たちの大学に、つまりハワード大学は奴隷制という長い影と闘うために設立された、ということに由来するのだろう——その影はまだ消えていないことを私たちは理解していた。 それだからこそ、私たちはたんなるスキルとしてライティングを学ぶわけにはゆかず、学ぶことがより大きな解放の便命に奉仕するものであると借じる必要があった。そのことは、直接言及されることがなくても、何かにつけて暗黙の棚に了解されていた。私たちが取り組んだ作品はどれも、「人間であることの些細なことども」を扱っていたが、これは文学が一般的に扱うものだ。けれどあなたたちが、私たち黒人がこれまで生きてきたように、いつでも人間であることを疑問視されるグループのなかで生きているなら、その「些細なことども」でさえ——いやいや些細なことだからこそ——政治的な意味を持ってしまう。あなたたちにとって、書くことと政治のあいだには隔たりは存在しえないからだ。"p2 "私たちは、黒人として、こちら側でもあちら側でも、西洋の犠牲者である——西洋のリベラルな食 言の外側に押し出されているが、西洋の約束に魅了されるほどには近いところに留められている。私たちは西洋という家の美しさを知っている——その石灰岩の階段、羽目板、大理石の浴室…....。けれと私たちが知っているのはそれだけじゃない。この家が呪われていること、レンガに血が染み込んでおり、屋根裏には幽霊が住んでいることも私たちは知っている。この状態には悲劇と喜劇の両方があることも理解している。私たち自身の人生や文化——音楽、ダンス、書くこと——はすべてこの「文明」の壁の外側という不条理な空間で形作られてきた。これが私たちの団結した力となる。"p46
- mikechatoran@mikechatoran2025年8月9日読み終わった海外文学タナハシ・コーツを初めて読んだが、すばらしい読み応えだった。1章は若者に向けての執筆入門のようなもの、2章は自らのルーツであるセネガルへの旅、3章は第一次トランプ政権後のサウスカロライナへの旅、4章はパレスチナへの旅について。4章がやはりすごかった。10日間の旅だということだったが、パレスチナ(土地と人)へのシステマティックな暴力とアパルトヘイト、イスラエルという国のフィクション的なありよう、シオニズムの植民地主義を暴いている。その上でパレスチナ人自身による発言の重要性を指摘する。アダニーヤ・シブリー『とるに足りない細部』で描かれた不条理がいかによく考えられたものかが垣間みえて一層慄然とした。