ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み

ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み
ホモ・ルーデンス 文化のもつ遊びの要素についてのある定義づけの試み
ヨハン・ホイジンガ
里見元一郎
講談社
2018年3月11日
6件の記録
  • ばるこに
    ばるこに
    @pokapoka
    2025年4月9日
  • 「遊び」を高潔なものと定義したホイジンガの思索。遊びは常に遊びそれ自体に目的を持っており、そうでない遊びは、遊びたり得ない。 ホイジンガは「遊ぶ」余裕をなくした20世紀社会へ伶俐な視点を向ける。おれは21世紀に、遊ぶ。 以下核心。 我々はゆっくりとではあったがやっと一つの結論に近づいてきた。真の文化はある程度、遊びの内容をもたなくては成り立ちえない。なぜなら、文化はなんらかの自己抑制と克己を前提とし、さらにその文化に特有の性向を絶対最高のものと思い込んだりしない能力をもち、しかも自由意志で受け入れたある限界の中で閉ざされた自己を見つめる能力を前提としている。文化はある意味ではいつの時代でもやはり一定の規律への相互の合意に基づいて遊ばれることを欲している。真の文明はいかなる見方に立とうと常にフェアプレーを要求する。またそのフェアプレーとはつまり善良な誠実さを遊び言葉に言い換えたものにほかならない。遊びの協定破りは文化自体をも破壊する。文明のもつ遊びの内容が文化創造的、あるいは文化推進的であろうとするなら、それは純粋でなければならない。それは理性や人間性や信仰によって定められた規範から迷い出したり、それに違反したりしては成り立つはずがない。それは故意に育成された遊びの形式によって特定の目的を実現する企てを隠すための偽りの仮面の装いであってはならない。真の遊びはあらゆる宣伝を締め出す。それはそれ自身の中に目的をもっている。その精神と情緒はこころよい恍惚境のそれであり、ヒステリックな大騒ぎのそれではない。あらゆる生活分野を一手に支配しようとしている現代の宣伝はヒステリックな大衆的反応をまき起こそうとし、そのための手練手管を動員して運動している。その場合、遊びの形式を借りたにしても、それは遊びの精神の近代的表現とみなされるべきではなく、ただそれにあやかった偽物であると考えられるべきだ。
  • サカグチ
    サカグチ
    @hisuissugi
    2025年3月30日
    ガチ名著。 「文化のもつ遊びの要素」を問題とする。 本編とは関係がないが、この書き出しが流石にカッコよすぎる。 「私の仕事を公けの批判にさらすにあたって私には次のような恐れが浮かんできた。おおかたの人は、この中に含まれているすべての労力にもかかわらず、これを不完全な史料を基にした即興的なものと思うかもしれぬ、と。しかし、自分が十分知りつくしていない分野にもあえて、しばしば立ち入らねばならぬのは、文化問題を扱うものの宿命である。知識の間隙のすべてを事前に満たすことは私には到底できないことだった。そして、これを引用文献に細目の責任をとってもらうことにより私はあっさりすますことにした。結局、私にとって、書くか書かないか、どちらかとなった。私の心の中にしきりに動く何かに誘われて。とうとう私は書いた。」 まえがき、目次、第一章、第三章、第七章、第八章、第十章、第十一章、第十二章の順で読んで、その他はノリで行こうと思います。 (3月31日追記〕 この本は俺に読まれるのを待っていた
  • cojima
    cojima
    @cojima
    2025年3月30日
  • Cota
    Cota
    @Cota-CAT4rd
    2025年3月30日
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