客観性の落とし穴

26件の記録
- おかわり@Okawari2025年7月9日読み終わった最近至る所で目にする「ナラティブ(物語、語り)」ってこういうことなのかな。 「経験の重さは言葉にならないものであり、それゆえに不完全にでも語ることを通して私たちは経験の生々しさに対して応用しようとする。不合理で意味を持たない現実に対して、かりそめにせよ意味を与えることで生き延びる試みが物語るという営みだ。(p.118-119)」 「1人の死は悲劇だが100万人の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉が頭を過った。社会に存在する困難を統計上の数字に落とし込んだり、あるいはレッテル貼りによる単純化...う〜ん気付いてないところで私もしているんだろうな。 社会に、もっと心と時間の余裕があればそうした1人1人の悲痛な声にも耳を傾けることができるかもしれない。 家庭支援員や看護訪問員の方をはじめ、ケアワーカーの方々がどんなことをされているのかも勉強になった。 終盤、「現象学」というワードが出てきたがここはよくわからなかった。現象学、そのうち入門書か何かいいのが見つかれば読んでおきたい。
- yt@yt2025年6月25日読み終わった重視されすぎる客観性。 数値化された指標が、私たちの個別的な経験よりも優先される社会。 思い当たるところが多く、見ないふりをしていたが。 生きづらい。 解決策はフッサールの現象学を頼りに模索される。 モデルとなるのは「来たら、だいたいなんとかなる」西成だ。 こうして文化としてのケアを考えることになる。 居場所って、何の客観性もないところなのかも。
- Rusk@Rusk_182025年6月22日読み終わった【きっかけ】 ・現代人の信仰を知りたい →客観性と数値化(数字)への信仰 【構成】 前半:客観性と数値化 →客観性がいかにして現代社会を支配するようになったのか 後半:客観性と数値化への過剰な信仰から離れた先にあるもの →一人ひとりの経験の重さを回復する「語り」の重要性、ケアから社会を作っていくこと 【感想】 特に第4〜6章が面白かった。社会にとって価値(その指標は生産的・効率的であること)がない人は排除してもよい、という論理性と合理性によって目の前の人間を数値化する。個々の命や人生が数字に置き換わり、差別と排除が正当化される。このように考えてしまうことを、ある人の思考傾向ではなく、私たちのなかにある「集合的な思考の問題」であると考えている。確かに、役に立つかどうかによって、自分や他人の価値を定めることは簡単なことである。私自身も仕事をする上で、他人をそのような指標で考えることがある。しかし、それがその人の価値であると見なすことは、考えることからの逃げであると思う。第6章「偶然とリズム」で書かれてあるように、その人の働き方や関わり方、生き方と私や私がこれまで出会ってきた人のそれとの違いを感じることの面白さを感じることに、人との出会いの意味があるのではないかと思う。出会うというのは、排除するためにあるのではなく、相手と自分に対して新しい発見をすることである。ということを改めて感じた。 また、自己と向き合う時においても、他者との関係をつくる時においても、偶然の出来事に対していかに意味づけを行っていくのかが重要であると思った。AIは複雑な出来事を合理的かつ論理的にまとめることができる。しかし、私自身の「語り」は私が語ることでしか生み出すことができない。「語り」を通して私の人生・経験や偶然の出会いに意味づけをすることは、私しかできない。複雑な出来事を、複雑なまま受け止め、自分の「語り」を通して意味づけし、表現することで私だけの価値を見つける。それが結果として、誰かに影響を与えていき、自分の表現が他人の表現へと繋がっていく。
- 仲嶺真@nihsenimakan2025年4月30日読み終わった書き終わってみると、本書は「私にとっての現象学入門」とも言うべき性格を持つことにもなった。ただしこの「現象学」は古典を読みこむ哲学史研究ではない。フッサールとメルロ=ポンティからインスパイアされつつ、私たちのグループが自分たちでデータを取りながら自力で進めている生き生きとした現象学実践のことである。 p.175