

乖離
@karu
ぬーん
- 2026年6月10日
ケアと編集白石正明読み終わった医学書院のシリーズ〈ケアをひらく〉は、当事者研究を世に開いた、とても好きなシリーズです。 この本はその編集者が、シリーズを世に出す中で出会った人びととのエピソードと、編集という営みを並べて綴りながら、ケアと編集について考えた本です。 ケアに関する書き手の語りと、編集者がそこから感じたこと、編集との共通項。 言葉を編む際の指針として印象的だったのは「接続詞はドアを閉める」という節。 『逝かない身体』という、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症した実母を介護した川口さんの本を編集しているときに気づいたことだという。この本の内容自体も示唆に富んでいるけれど、私が拙く説明するよりも実際に読んでほしい。 p.159 文章同士が緊密につながりすぎていると、読者はその中に入れなくなるのだと思う。(中略) 文と文のあいだが緩いと、すきまに入ることができる。そのスペースにしばらく佇んでいると、部屋と部屋をわたる風が気持ちいい。風にしたがって文章の中を歩いていけば、おのずと行くべき方向は見えてくる。それが文章を体験するということだ。 言葉の感覚と身体感覚がリンクするような説明が腹に落ちる。私も接続詞が多く説明的になりがちなので意識してみたい。 この本も〈ケアをひらく〉も結論先取で要約できるような本ではない。病を負う身体や、ケアを受ける身体、やってきた言葉を受け止め編集する行為の現在性に重きを置く本だから。 でも思い出す手がかりとして最後に引用をしておきます。 p.199 今、ケアとは何か、と聞かれたらこう答えるだろう。 「それ自身には改変を加えず、その人の持って生まれた〈傾き〉のままで生きられるように、背景(言葉、人間関係、環境)を変えること」と。 編集もおそらく似たような行為なのだろう。文章に改変を加えるより先に、その人や文章の〈傾き〉が輝きに変わるような背景(文脈、構成)をつくっていく作業が編集の本態ではないか。そうしたやり方を、わたしはケアする人たちから学んできた。そして、それ以外の編集のやり方をわたしは知らない。 - 2026年6月7日
- 2026年6月7日
世界の市場マリヤ・バーハレワ,アンナ・デスニツカヤ,岡根谷実里気になる - 2026年6月7日
百島百祭黒岩正和気になる - 2026年6月7日
もう一つの衣服、ホームウエア武田尚子気になる - 2026年6月5日
- 2026年6月5日
東京ヒゴロ(3)松本大洋読み終わった今ビッコミで全話無料やっているので一気読み。 松本大洋の漫画はコマの一つ一つが、街並みや人物など伝えたいことを過不足なく伝えるために構成、配置されていて、どうやったらこんな漫画を描けるんだろうと思う。 今作は特に人びとが暮らす街を遠景で描くコマが印象的。 早朝に歩く人の影が長く伸びる。朝の青々とした空気感を白黒で表現するのすごい。 紙で買いたいなあ。 - 2026年6月5日
- 2026年6月4日
- 2026年6月4日
Sunny(1)松本大洋読み終わった - 2026年5月31日
飯島愛のいた時代安田理央読み終わった同時代を生きていないのでよく知らないけどなんだかアイコニックな印象がある飯島愛。 彼女についての報道やメディア記事を通して90年代をみる、という本を読んでみた。 AV女優としての飯島愛への語りはあけすけな性的なまなざしで時代やどういった場で彼女が現れたのかを感じた。 また、多くの女性からも支持を得たという点では、今日でも性産業に従事する女性が少女たちのアイコンになる場面をSNSで見かけるけど、自由とか率直さへの賛美と、美しさと富への賛美でけっこうニュアンスが違うのかもと思った。 飯島愛のエッセイとケータイ小説ブームの共通点についての指摘は面白かった。ギリ恋空とかは読んでたのでそこ繋がるんだ〜って感じで。 飯島愛の内面へ踏み込もうというのではなく、あくまでさまざまな媒体で彼女がどう語られたのかに終始していたのが、20年経って出版される本としてよかったと思う。 - 2026年5月31日
ネガティヴ・ケイパビリティで生きる朱喜哲,杉谷和哉,谷川嘉浩読み終わった若き哲学者、公共政策学者たち三名が「陰謀論とナラティヴ」「アテンションエコノミー」「徳とプライバシー」というテーマで重ねた対話の記録。 最近は本を読むときに気になった部分や引っかかった部分に付箋を貼るようにしてみている。本書を読みおわって、この感想を書くために付箋部を読み返してみると、自分の関心が学生時代から意外と変わってないかもということに気づいた。 「言葉とアイデンティティ」「公私と共」「物語」 私に固有ではなく広く関心を集めるテーマだからこうして本になっているのかもしれないけれど、社会に出て過ぎ去ってしまったと思っていた過去の私がまだ存在していると感じられて嬉しい読書だった。 そもそも社会人になって変わってしまった、と最も感じるのは、社内や商談の場のための言葉遣いを学生時代からの友人の前でしてしまったとき。 あ〜昔の私ならこの子と話すときに、こんな単語使わなかったのに無意識に言っちゃった……が頻発すると落ち込む。 本書でも度々、身にまとう役割やアイデンティティによって変わる言葉遣いについても言及がある。 p.59 先に紹介した定量的なヘイトスピーチの研究から見えるのは、何か根拠があって思考を進めている(=推論している)というより、ある言葉を選ぶことで敵味方の陣営分けをするみたいな図式なんですよ。だから、陰謀論者は自分の推論を明らかな形で見せることもないので、一つ一つの主張とその理由のステップを確認する余地がなくなっちゃう。つまり、そこにはコミュニケーションの取っ掛かりがないわけです。 p.182 わかりやすいストーリーに回収するような熟語、定型化されたパターンに回収されそうな言葉を禁止する。前回の「ナラティヴ」みたいな話ですけど、「ああ、そういうことね」という手近な理解に回収させないように、特定の語彙をさせないようにすることで、自分自身の自己理解自体もたぶん変わってきますもんね。 これに対して、対談者の上間さんが切り込んで、「言葉を禁じると何が残りますか」と言ったら、「それはね、うーん、比喩ですね。そう比喩の豊かさです」と言ってたんですよ。 p.200 「変にすれた人間にならない方がいいよ」という話をよくするんです。新しくビジネスのインサイダーになるときに、新しい言葉通いやスキルを身につけて、既存の感覚を上書きしてしまうのではなくて、何かに出くわしたときの然とした感覚とか、何かのタイミングで 「え、こんなことしちゃってんの、この人たち」と驚いたこととか、そういうことを温存して、 その違和感を適切に表現する人の方が、かえって組織や企業にとって有益なビジネスパーソンたりうるんです。 ネガティヴ・ケイパビリティって結局なんだ? 今いまそれを受け入れられるだけの度量が社会にあるのか? とか思いつつ、この消極的な能力に必要性と魅力を感じるのは事実なので個人的なレベルで実践してみたり、できなかったりを積み重ねていきたいと思います。 業界人にならない。公私のアイデンティティを引きつけすぎない。公私の間の共の部分を作り出す。 うーん、やっぱまだあんま自信ないや! - 2026年5月31日
贅沢と欲望の経営史坂出健気になる - 2026年5月31日
みんなこうして連帯してきたジェイク・ホール,安藤貴子気になる - 2026年5月28日
ゲーテはすべてを言った鈴木結生読み終わったすんごい面白かった。 ゲーテ学者の主人公は一家団欒の席で、ティーバッグのタグに見知らぬゲーテの名言を見つける。 この言葉の出どころを探しながら自身の研究人生を振り返っていく。 感想うまくまとまらないや。言葉は代用品にすぎないけれど替えの利かない代用品だ、というようなことを思った。 題材はド文学だけど読み口はエンタメ的でもありスルスル読めた。 - 2026年5月24日
- 2026年5月24日
思いがけず利他中島岳志読み終わった私周辺での話題書でキーブックだと思いながらもまだ読んでいなかった。ようやく読みました。 p.174 利他は自己を超えた力の働きによって動き出す。利他はオートマティカルなもの。利他はやって来るもの。利他は受け手によって起動する。そして、利他の根底には偶然性の問題がある――。 私の生活、労働の意義に思い悩んでいるという立ちあがってくる「何のために?」という問いのヒントが得られるといいなと思い手に取った。 p.55 自分はどうしようもない人間である。そう認識した人間にこそ、合理性を度外視した「一 方的な贈与」や「利他心」が宿る。この逆説こそが、談志の追究した「業の肯定」ではないでしょうか。つまり、談志がつかもうとしたのは、人間の力を超えた「浄土の慈悲」であり、「仏の業」だったのではないでしょうか。 今まであまり関心が無かったのですが仏教思想をいろいろ読んでみたくなった。 私は自己責任論を内面化しすぎているきらいがあるかもしれない。 - 2026年5月24日
クリティカル・ワード ゲームスタディーズムン・ゼヒ,マーティン・ロート,井上明人,井出草平,今井晋,倉根啓,吉田寛,小林信重,尾鼻崇,山口浩,岡本健,木村知宏,松永伸司,根岸貴哉,楊思予,武澤威,池山草馬,田中治久,福田一史,竹本竜都,藤本徹,藤田直哉,西條玲奈,谷川嘉浩,近藤銀河,髙松美紀,髙橋志行もう一度読みたい - 2026年5月24日
インディーゲーム中毒者の幸福な孤独ソーシキ博士読み終わった筆者が出会った個人的なゲームたち。 ゲーム制作者の経験を表現したもの、脈絡のない滑稽なもの、さまざまな海外インディーゲームを紹介したエッセイ集。 ゲームになることによって却ってリアリティを持ち、プレイしていると自分の人生を重ね合わせてしまう作品も多そうだ。 最近、ビジネスの文脈でインディーゲーム市場の伸びに注目するような記事や話題を目にするが、市場規模とかでは語れない個人的なゲームの集積がインディーゲームの世界の大半を占めるのだろう。 p.24 Yoke Mart が他者からの発注によって短いゲームを大量に作る姿は、『自分の好きなものを作れる”というインディーゲーム最大の特性を他人に売り渡していると言える。しかしその行為自体が、インディーゲームの世界が有名になりどんどん整備され、 長大な作品が増えていく現状に対する、軽やかでアナーキーな反抗になっているように私には見える。Blakeが作る短いゲームは意味や深刻さや、時にクオリティーまでをも手離し、まるで意図的な不具合のようになって「ゲーム」そのものに疑問を投げかける。 それにしても、ゲームという形式は、たとえ結末に関与しないクリックばかりの作品や不条理な展開の作品であっても、鑑賞者にプレイヤーという地位を与えるという点で、他のメディアよりも強い働きかけをすることがあるように見える。 本のページをめくることも一種のゲームだろうか? 前に買ったゲームスタディの本読み返したくなった。 あと実際にプレイしてみたい作品がいろいろあった。特に「The Bookshelf Limbo」が気になる。 - 2026年5月24日
エネルギーと公正イヴァン・イリイチ気になる
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