たじ
@tazi
本の感想を想起した順番で、メモ的に書き殴っていきます。
日常の多くの些事と、本の中に息づく大いなるテーマが関連して、新しい何かになる瞬間が好きです。
- 2026年3月6日
山の音川端康成読み終わった私の祖父母は、顔が見合えば喧嘩し、生活音が聞こえれば喧嘩した。 祖父は頻繁に、なぜあいつと結婚してしまったんだろうと孫の私に言った。 幼心に、よく子供にそんな胸の内を吐露できるな、と思ったのを覚えている。 なぜ結婚したんだろう、この2人を結びつけた運命とはなんだったんだろう、と不思議に思った。 この小説の主人公である信吾は、夭折した妻の姉が今も忘れられない。 その妻の姉を、慎吾の息子の嫁、菊子に重ね合わせる。 そして、この菊子を私が愛せていたら、と想い、そんな想いを抱く自分に驚き、否定する。 そんな信吾の周りには、死の予感が囲む。 同級生の死、自らの老い、様々な形で去来する中で、自分の人生への後悔と、家庭に未だ起こる数々の問題とそれへの疲労、それらが信吾を苦しめる。 だからこそ、より一層菊子に惹かれていく。 息子の修一は不倫する。 菊子の信吾への想いが、義理の父へのものとは言い難いからだろうか。 娘の房子は、旦那が甲斐性なく大晦日に家を出てきた。 信吾は何も行動しない。 ただ、菊子のために(と自覚しながら無意識のふりをしている)のみ動く。 そんな父との心の断絶に息子娘は苦しむが、この小説は信吾の一人称で語られるため、信吾の目線でしか語られない。 信吾の無関心が現れているような。 この小説を読んで、家族とはなんだろうと、やはり考えてしまう。 家族だから、無条件に愛されるわけではない、という残酷な事実が、本当に痛い。 私たちが、私たち同士が寂しいと感じた時に、互いがその救済になり得ないことの、本当の寂しさはどうすれば解消できるのだろうか。 その寂しさを埋めるための気休めを求めてしまう、 そんな後の運命に悲しい尾を引くくだらなさが、どうして産まれるんだろうか。 それこそが人間でありだからこそ理性がある、と半ば強引に肯定してしまえば、それこそ全てが馬鹿馬鹿しい。 悲しい情感をもつこんな考察もくだらなく、人間とはなんて馬鹿馬鹿しいのだろうか。 なんか、、ドラゴンボールみよ。 - 2026年2月24日
女の決闘太宰治読み終わった小説なんてたかが小説、ありがたがるな。と言わんばかりの冒頭。 それを、人の(しかも当時は存命中の作者の)作品を勝手に捕捉、改変しながら、 「ほら、小説にでてくる人の心(作品内では女の心)なんて作者の主観でしかない」と言っちゃう。 「でも俺は書けちゃうけどね〜」なんていう太宰治のユーモアと捉えるか、傲慢と捉えるか、わがままな男特有の魅力と捉えるか、異端児独特の主張を感じながら、楽しく読みました。 原作の"女の決闘"の語り方も面白かったし、 小説家や芸術家が人心の惨さへの好奇心に浸っていて、かつ何も真実を描写できない皮肉を色々な表現で語るところは読んでいてハラハラしました。(彼らに傾倒する人たちのことも、結局何も見えてないんだという観点から愚かだと言ってましたね) 鴎外の全集を自分では買わずに人から借りてるし、 それを寝転びながら読んでるし、 これくらいの態度でいいんだっていうことかな。 まあ小説読んでもいいけど、まずはしっかりと生きろよと。アリストテレスみたいなメッセージにも感じましたけど深読みしすぎかな。 でもやっぱり気障でロマンチストだと思うんですよね太宰治って。あれだけのことを書いてやっておいて、最後は爽やかで、おしゃれで、全体を包括した2文をサラッと書いて終わる。こういう憎らしいところがファンを産み続けるところだし、モテるところなんだろうなと鼻をほじりながら思いました。 - 2026年2月12日
フラニーとズーイサリンジャー,J・D・サリンジャー,村上春樹読み終わったこんなにもフラニーとズーイに没入して読むとは思わなかった。 つまらないやつしかいない、 こんな世界はつまらない、 そんなことを思う自分はもっとつまらない、 でもどうすれば良いかわからない。 導き手を求めて、神に祈るほかない。 荒っぽくて生真面目なこの本に、前提から違うと言われた。 「太ったおばさんのために靴を磨け。 そいつがキリスト本人なんだよ。」 「演技をするんだ、ズーイ」 ズーイがバディーの手紙を何度も読み返すように、 自分も人生の中で、この本を何度も読み返すと思う。(現に読み終えた後、もう一度初めから読み返した。) 自分は至って普通の人間で何も崇高な部分なんてないこと、 表層的だとなじっていた誰かと特に変わらないこと、 誰かのために考えられる行動をすること、 "良い"人間になろうとせず、よく生きようとすること。 そんな当たり前のことを当たり前に心に置いて、 平静で冷静な自分を維持するためにこの本を読み返す。 メモ ・ズーイはフラニーに語りかけるようでありながら、常に(シーモアとバディーの口を借りて)自分にも語りかけている。演技をするように。 ・この話の全てはやはりラブストーリーで、家族が全員お互いを想いあう。 母は子供達を、バディーは母と弟妹を。 ズーイはバディーとフラニーを想い、母を想う努力をする。 フラニーはバディーとズーイを想い、母を想う努力をする。 - 2026年1月25日
バウムガートナーポール・オースター,柴田元幸読んでる - 2026年1月24日
母なる夜カート・ヴォネガット・ジュニア読み終わった奇妙な読後感。何を読んでいたんだろう、読まされていたんだろうという感覚。 キャンベルとはなんだったのか。 この話は、何を装い、何を装わないか(確固たる自分)、そのある意味での演劇をさせられる人たちの話。 キャンベル自身を含め、彼の周りにはスパイが出てくる。 何かを装いながら、必死に自分の足場が崩れないように守ろうとする。 彼らは芸術や愛に生きる目的を持とうとし、そこに本当の自分のアイデンティティを保とうとする。 キャンベルは、あの屋根裏部屋での亡くなった妻を思い出しながら過ごしたささやかな日常に足場を見出していたが、彼の過去がその安住を許さない。 こう書いていると、 キャンベルは何を装っていたのかわからなくなる。 一見すると、 ナチスドイツの扇動家を装いながら、 その正体はアメリカのスパイである。 ただ、キャンベルはナチスドイツに数々の残虐な提案をしたり、権力者に擦り寄ったりしている。 終戦後にアメリカ軍大佐のワータネンから「ドイツが勝利した場合、君はどういう行動をしていた?」と訝しまれるような行動を取っている。 アメリカのスパイであることも装っていたのか?どちらに転んでもいいように行動していたように見えてしまう。 そして、終戦後アメリカ国内では追われる身となり、自分の存在を消すようにひっそりと屋根裏部屋で暮らすことになる。 そうすると、装わない自分としては、亡きベルガを愛し続ける自分しかないとも言える。 が、これはレシ・ノトを愛してしまうことで崩れてしまう。 もはや何も残らない。装えるものも、確固たる自分も何もかも無くなった時、キャンベルの過去の罪だけが残る。 もはや罪しか残らない体と精神を、自ら罰することで救われる話だとすると、 この小説自体が、何もかもを取り上げられて途方に暮れる可哀想なキャンベルを描いていることになり、あまりにも悲劇的だ。 そして、ここに小説冒頭の"編集者から"が活きてくる。 「彼は劇作家であり、うそつきになれる素養があるということ」 アイヒマンのように、本当はどこかで拉致されてイスラエルに連れてこられた末に、独房で書いたものかもしれない。 エイブラハム・エプスタイン医師とその母に、通報されていたかもしれない。 私は、この小説を読み終えた読後感が非常に奇妙なものであると感じたものの正体は、 この小説こそがキャンベルが装ったものであるという感覚からかもしれない。 虚実入り乱れたこの小説こそが彼の闇であり、彼の悲劇を正しく誤解してくれる読者とその同情が光だとしたら恐ろしい小説である。 という、間違った深読みも多分にありながら、 まだまだ欠けている歯車だらけでそれを自覚していながらも、(いのち!) 色々な読み方ができる非常に面白い小説だということを言っておきたいわけであります。 (これ読んだ人と喋りてえええ!!) - 2026年1月18日
ふだんづかいの倫理学平尾昌宏読んでる - 2026年1月17日
タイタンの妖女カート・ヴォネガット,浅倉久志読み終わった最後の3章が劇的に面白い。それまでの章を読めば、劇的に面白くなる。すごく面白い本です。 カオスな作品の中に少しだけ感じられた詩の香りが、最後の3章で、物語の締めくくりと共に一気に芳香を放ちます。 好きな言葉が多い作品ですが、水星に残ることを決めたボアズに関するこの文章がとにかく好きで、この作品のメッセージの一部に感じられます。 "寂しくないことと、びくびくしないこと、ボアズはこの二つが人生で大切なことだと思った。" とにかく、この世は茶番で成り立っていて、色々とクソだなと思うことが多いです。 でもそんな中で起きる日常の奇跡に心を躍らせるし、それに意味を見出してしまう。それを愛と呼んでしまえば簡単でしょうか? こんなカオスで笑えて笑えない作品から、そんなことを考えました。 - 2026年1月11日
- 2026年1月11日
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