小説言の葉の庭

小説言の葉の庭
小説言の葉の庭
新海誠
KADOKAWA
2016年2月25日
27件の記録
  • it_shine
    it_shine
    @it_shine
    2025年7月11日
  • 『“愛”よりも昔、“孤悲”のものがたり』 読み終わってしまった。 映画では語られない周りの人たちの行動原理や心情にも途方もなく共感できてしまう。 だから作中では過ちとされてしまう行為であっても、この人にも救いがあってほしいとそう思う。 人間の綺麗なところも汚いところも全部包み隠さず掬い上げて救いをもたらしてくれる、そんな物語。 雪野先生はずっとまわりと上手くやっていく為に自分を抑えていて、なんとかこれまでやってこれたからそれが正解だと思っていた。けれどもとても理不尽で一方的な悪意に襲われて、今まで培ってきた方法では太刀打ちできずに潰れてしまう。どこにも逃げ道がないのはしんどい。そういう思いをした経験があるからすごく心境に共感してしまう。私には救いなんてものは無かったけれど。雪野先生が孝雄に救われたことで勝手にこちらも救われた気持ちになれる。 まだ自分は先に歩みを進めることができると思うことができる。 しんどい時、今がドン底だと感じる時、もう一歩も動くことができないかもと思った時、私にとってのお守り。 それにしても…あとがきで2013年に映画公開って書いてあって悲鳴をあげそうになった。そんなに前ですか!?当時の心境と現在の心境…少しは前に進めているのだろうか…。初めて読んだ時の感想とかは何も残してないから、今後また読んで記録する際は今の感想と比較してみるのもまた一興かもしれない。
  • 『世界の外側ではなくて、世界の内側に私は入りたかった。きらきらとした世界の一部に私はなりたかった。大人になるにしたがって、それはだんだん上手くいきそうに思えた。私はこのままみんなのようにちゃんと生きていけるかもしれない、そう思えた。でも気づけば、雨ふりみたいに避けられないなにかに、私は巻きこまれてしまっていた。』 大人になったらみんなに交われると思っていた。でも結局一度どこかで失敗したらもうダメなのかもしれない。自分でドン底から抜け出す術を見つけるか、もしくはここから引っ張り上げてくれる誰かを見つけるか。
  • 孝雄の母、秋月怜美のパート。 「今の若い子って、なんだか妙に他罰的なのよ。自分を差し置いて他人にはやけに厳しいの。自分がどれだけ他人から許されて生きてきたかは省みないで、それなのに道徳とか倫理とか、へんに常識的な振る舞いを人には要求するの。プライドは高いくせに承認欲求に飢えてて、そのくせ他人の価値は認めたがらないの」 そうそうその通りと思いながら読んだ一文。そう思いながらも自分もそういう行動を取っていないか?と行動を顧みてみると人ごとではない気がしている。 『常識』とか『当たり前』とかを無意識に他人に押し付けて、そこから外れた人を排除しようとする。他人の価値を認めること。共存。大事。 『リスクを避けるとか、人生の可能性を残すとまか、そういう考えは気づけば消えていた。そしてあれからずっと、私は旅を続けている。飛行機にも船にも乗らないけれど、市営バスの座席で、病院の待合室で、大学の食堂で、国産のワンボックスの運転席で、誰もいない高架下で、私の旅は続いている。そうやってずいぶん遠くまで、私も来たのだ。』 移動範囲は限られていようとも、人生という旅はずっと続いている。そしてこれから先も生きている限りずっと続いていくもの。自分が歩んできた後ろに道ができると言う。これまでの旅路はどんなものだったか?これからの旅路はどんなものにしたいか?
  • 『人の手で放った火であっても、炎はある時点からそれ自体の勢いで燃え広がるようになる。悪意もそれと同じだ。もはや最初の悪意が誰のものだったかさえ、最後には分からなくなる。梁の最後の一本が燃え落ちるまでそれは燃え続ける。』 事の発端は当事者にしか分からない。部外者はいつだって無責任なくせにまわりに同調して加勢して対象者を苦しめる。加害者に目をつけられた被害者の方がいけないのか?被害者が潰れたらそれで満足? 海外ではいじめはいじめをする加害者の方が心の病だと見做されカウンセリングを受けると聞く。この国では逆だ。やられた方が病気扱いでやった方は勝ち組で悠々自適にのうのうと生きていく。 燃え落ちた後には灰しか残らない。その灰からまた形を作るのは至極困難だというのに、人は無責任に頑張れだとか立ち上がれだとか言う。耐えて耐えて耐えて、それでもやっぱりダメで潰れてしまった状況にいてもなお、頑張れと言うのか。人間ってつくづく残酷だなと思う。潰れるまで傷つけ続けたのはそちらの方なのに。
  • 相澤祥子のパート。 この話を小説で読む醍醐味は、それぞれの人物が取った行動原理やバックグラウンドを垣間見ることができるところだと思う。 『わたしはいったいどうしたいのだろう。ぎらぎらと発光しはじめた街の中を、どこに行けばいいのかも分からないままに、わたしはとにかく歩く。いつまでも覚めてくれない悪夢の、でもぜったいどこかにあるはずの出口を探すみたいに。』 世の中の 苦しきものに ありけらし 恋に堪へずて 死ぬべき思へば』 (この世にあって 苦しいもので あるようですね 恋に苦しみ 死ぬ思いをしているので) 好きと嫌いは紙一重。一方的な好きの感情が強すぎると憎悪に転じてしまうのかもしれない。私はこんなにも苦しんでいるのだからあなたも苦しみなさい、みたいな? こんなはずじゃなかった、私は何もしていない、まわりの人間が勝手にやったことだ。相澤祥子はそう言うのだろう。人を再起不能になるまで追い詰めておいてもなお。結局自分が一番可愛いのだから。でも、責任からは逃れられない。人を苦しみの底に突き落とした罪は一生つきまとう。いつか雪野先生のことを思い出したときにきっと自責の念に駆られる未来が見えるような気がした。
  • 『私は今、なにを失いつつあって、なにを得ようとしているのだろう。あるいは得るものなんかなに一つなく、誰かのことを損ない、自分もなおさらに失っていく過程なのだろうか。』 『まだなにも始まっておらず、しかし無ではなく、同時になにも終わっていない時間。純粋に善なる可能性だけがある、二度と訪れることのない美しく完璧な時間。もし神さまが人生でもう一度だけ繰り返してもいい、そんな日を与えてくれるとしたら、私はきっとあの光の庭を選ぶ。』 『晴れの日のここは、知らない場所みたい。たっぷりの寂しさを含んだ気持ちで、そう思う。』 雨の日と晴れの日では同じはずの庭園でも、表情がまるっきりガラッと変わる。 雨の日にしかお互いに会えない。 約束した訳ではないけれど、雨が降った日にこの庭園に来れば示し合わせたように会うことができる。 逆に言えば、この場所に来なければお互いに会う方法がない。 人と人との縁は簡単に切れてしまう繊細なもの。大切に大切にしなければと思った。 『だめだ。たまらなく誰かに会いたいのに、誰に会えばいいのかが分からない。誰が私と会いたいと思ってくれるのかが分からない。私には会いたい時に理由なく会える人が-友達と呼べるような人が、もしかしたら、誰もいない。社会人なんて案外こんな感じなのかもしれない、そう思おうとするけれど、それでもやっぱり絶望的な気持ちになる。』
  • MDR
    MDR
    @MDR2025
    2025年6月16日
    小説よりアニメの方がテンポよくていい。
  • MDR
    MDR
    @MDR2025
    2025年6月14日
  • 『辞めたってなんの当ても夢もオレにはないのだ。』 『うらやましいのだ、オレは。』 秋月孝雄の兄 翔太のパートより。 夢があってそれに向かって情熱を傾けられる人ってすごい。尊敬する。 それと同時にどうしても比べて劣等感を覚えて嫉妬してしまう。 光が強くなるほどに影が濃くなるとでも言うかのように。 もっと明るいこと考えようよって思っても、どうしても。こういった影側に配置された側の人間にものすごく共感してしまう。 『十代だろうが二十代だろうが、あるいは五十代になってからだろうが、きっと生活は区切りなく続いていき、夢だの目標だのもつねに形を変えつつ傍らに在り続けるのだろう。』 形は違えど自分の傍らに在るもの。私にも在るのだろうか。在るといいな、そう、強く思う。 本編を観るだけでは計り知れない、周りを取り巻く人たちの行動原理。 それぞれの人物の背景や心情を見ることができて、その上その人の立場に自分を置き換えることができる。 やっぱり『言の葉の庭』って、すごい作品だと改めて思った。
  • 「人間は正しさによってではなく、感情によって動く」 「なにごとにも原因はある。すべては繋がっている」 「俺をどこか違う世界に連れていってくれるなにかを、ずっと探してるんだ。今も」 現状をガラッと変えてしまうような起爆剤のような出来事を、この場所から引っ張り上げてくれるような劇的な変化を、求めてしまう。 結局自分で踏み出さなければ何ひとつ変わりはしないというのに。 『ここではないどこかに』行ったとしても、その場所に着いた途端にその『どこか』も結局は『ここ』になってしまう、とは誰の台詞だっただろう。
  • kei
    kei
    @keibookreading
    2025年6月11日
    映画も見たことはないけど、前から読んでみたいと思ってた。
  • 梅雨の時季になると読みたくなる。 あとは雨の日の新宿御苑に行ってみたくなる。 満員電車での『背中に押しつけられる体温』 『遥か届かないあの空の匂いを、雨は連れてきてくれる。』 『傘が全天のスピーカーとなって雨音を奏ではじめる。』 ふとした瞬間に思い出す表現はみんな「言の葉の庭」だったようだ。 雨の日はやっぱり好きになれないけど、この話を読んでいると雨の日も悪くはないかなと思える。 久しぶりに読み進める。
  • 「どうせ人間なんて、みんなどっかちょっとずつおかしいんだから」 何度読んでも毎回この言葉にどうしようもなく救われてしまう。 私も電車に乗れない時期があった。 学校に行きたくなくて、でも帰れもしない。 電車通学するようになって、こんなに遠くまで行けるんだ!って最初は感動していたけれど。 場所は遠くても、結局は家から駅までと、駅から学校までの狭い世界でしか生きられないんだと絶望したんだよな。 むしろ電車に乗ってしまったら否応なしに行きたくもない目的地に運ばれてしまう。 私も学生時代に人生の師に出会いたかった。 授業は嫌いじゃなかった。 知らないことを知ることができて楽しいという点がもちろん一番大きかったけれど。 今思うと授業中は誰かの悪口とか下品な笑い声とかを聞かなくてすむからだったのかもしれない。
  • 泡
    @clear_night
    2025年6月4日
  • 雨の描写、心情の機微がすごく繊細に描かれていて大好きな新海誠作品。 映像ももちろん大好きだけど、それぞれの行動の意味や心の動きがこと細かに描かれていてこちらも好き。 梅雨の時季になると新宿御苑に行きたくなる。
  •  あまね
    あまね
    @hi-lite2725
    2025年3月20日
  • ぽ
    @osmanthus-
    2025年3月16日
  • K
    K
    @km_n_hns
    2025年3月16日
  • 霜
    @__frostnit
    2025年3月8日
  • おもち
    おもち
    @mochimochi
    2025年3月8日
  • みをり
    みをり
    @miori52
    2025年3月5日
  • 新海作品で一番小説の形が合う本だと思う。
  • 映画をほとんど見ない私が、唯一大好きと呼べる映画がある。新海誠監督の『言の葉の庭』という作品だ。 映画を鑑賞してから数年越しにようやくそのノベライズを読了した。映画ではその映像のあまりの美しさに茫然としたあとうっとりとして。「美しい作品」という印象が強かったが、小説を読むとそれぞれの登場人物の柔い心の裡が鮮明に描かれていて、何度も涙が込み上げた。どうしようもなく、どうしようもない恋をしているひとたちの物語だった。
  • 🦆
    @dyslexia-kamo
    2024年5月23日
    新海誠とは気が合わないけど、映画『言の葉の庭』は数見た映画の中でもTOP3に入る好きだから小説版も好きだと思った。 のに、新海誠の嫌なところが凝縮されている、信じられない。 映画を嫌いになりたくなくて早々にやめた。 二度と挑むな。 本当に映画版だけしか愛せない。 言葉を尽くさず少ない情報で視覚だけで与えられる想像の余地の多い話だから良かったんだ。小説版は、知りたくないことが多すぎる。
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