優しい暴力の時代

33件の記録
- jyue@jyue2025年2月14日読み終わった読書日記2月某日(?) 人生初、自宅で焼き鳥を作った。スーパーのお肉が変身したかと思うくらい、天才的に美味しかった。ただ、中まで火が通るのにものすごく時間がかかる。体感、たこ焼きが焼けるのと同じくらいの時間。家族はお腹が空きすぎて気分が悪いと言い、焼き鳥を見ながら小さいチョコを食べていた。これから外食するときは、焼き鳥屋さんにもっと感謝しながら食べると決意。同じ部屋に置いてしまっていたので『優しい暴力の時代』は香ばしい匂いになった。 2月某日(水) 2/16に、『MONKEY vol.35(ポールオースター 君に物語を語りたい)』の刊行記念トーク&朗読会があるので、それ以降はひとりオースター祭りを開催しようと企んでいる。それまでに1冊でも多く韓国文学を読みたくて、焦っている。別にオースター祭り中も韓国文学読めばいいのにね。勝手に自分でルールを作って、勝手に苦しめられている、の図。 2月某日(金) 『優しい暴力の時代』を読了。静かな足音で近づいて来て、気がつくと背後を取られているような、そういう物語が多かった。短編を多く書く作家を見ると、伝えたいことがたくさんあるんだろうなと思う。私には白紙で絵を描きたい欲がないから、いまの仕事を選んだ。その多感な姿勢が、気概が、チカチカと光って、眩しい。
- DN/HP@DN_HP2024年4月23日かつて読んだ心に残る一節読書日記習慣で寄った本屋でなんとなく選んだ短編集が完璧にClassicだった。これは本当に凄いと思った。という体験を以前にもしたことがある、と思い出す。あのときも同じ本屋で同じ出版社、同じ翻訳者の文庫本を買ったのだった。電車で読み始めた最初の頁でこれは読みたかった本だ、と“分かった”ときの喜びも同じだったように思う。 帰り道の終点駅のホームで読んだ最初の一編の最後のページ、そこに書かれた印象的な涙を読んで、泣きそうに、いや、彼と同じように「まだ起きていないできごとと永遠に起きないできごとを思い浮かべて」泣きたいと思った。 物語られる幾つもの人生では常に世界、社会から決断を迫られる。することとしないこと、先延ばしにしてしまうこと、その末に変わらないことと意図せず変わってしまうこと、期待と後悔と絶望。それでも世界は続いていくし人生も続けていくこと。そこにあった決断や結果、感情や悩みの多くには覚えがある気がした。誰かの人生を知ると同時に、自分を省みるように読んでいた。幾つかの記憶が文章になっているような気にも、少しだけなってしまった。 そんなふうに読むというと、重く苦しい読書になってしまう気もするけれど、この短編集の「淡々とした口ぶりは、辛い状況を聞き手にユーモラスなものとして受け取らせる効果」があるし「決して重いとだけは言えない気分で」読み進められたのだった。小説の力と読書の喜び。これが読みたかった短編たちだ。 それに、それぞれの人生、物語には、書かれていることにもそれを書くこと自体にも希望があるとも思えて、最後の一編の前にあった“作者のことば”にある一文「この先にまたどんなことが待っているか見当がつかなくても、息を一度ととのえて、遠い道を歩いていく。」にも、納得と感動の深いため息が出たのだった。 「そんな時代を生きていく、私によく似た彼らを理解するために努力するしかない。書くしかない。小説で世界を学んだのだから、わたしの道具はただそれだけだ。」 未だ小説が書けないとしたら、そんなふうに書かれた小説を、読むしかない。それは、”私“のことも“彼ら”のことも理解しようとすることで、その先には必然と自分のことを理解しようとすることにもなるのだ、とも思えた。 . 決断をしたとしても、あるいはしなかったとしても、世界も人生も(少なくとも思うようには)容易には変わらないけれど、それでも世界も人生も進んでいく、進むしかない。でも、そこには希望もある、持つことが出来る、書ける。という感じはテッド・チャンの書く短編とも近いかのもしれない、と考えてみています。