物語とトラウマ
36件の記録
くりこ@kurikomone2026年1月1日読み終わった読み終わった。沢山心を打つ言葉があって自分のために書かれた本みたいだった!こういう本に会うと、私を本当の意味で理解してくれる親友に出会えたみたいに嬉しくなる。biblogに言葉を沢山書き留めた。 色んなマイノリティが、文字通り命を懸けて声を挙げて社会を変えてきたのだけど、当事者に頑張りを押し付けてないか?とモヤモヤすることがある。岩川さんは、マイノリティが言葉を発する事にフォーカスするのではなく、当事者の証言をどれだけの人が聞く姿勢があったのかと何度も言及されていて、視点の転換の必要性を痛烈に感じた。 傷つくという事は本質的に言葉を奪われることだと考えているのだけど、新しい言葉を獲得するには、以前話していた言葉と違う文法の言葉を習得する必要があり、それは社会と自分が接続されないとできない行為。だから、言葉を発せないという事は、その人の内面の問題ではなくて、社会が当事者を今だに切り捨てているという事になる。 と同時に、私は、周縁化されかき消されている人々のうめきを聴こうとしているかという問いが残った。彼ら彼女たちが語れないということは、私の責任だからだ。





くりこ@kurikomone2025年12月28日まだ読んでるp.276 原発の詩「水ヲ下サイ」(原民喜)をこの本で、あらためて読む。 大人になって読むとやっぱり印象が違う。オーオーオーオーという擬音語、ニンゲンノウメキという言葉は、深く傷つきすぎて文字通り言葉を奪われていること 戦争という暴力は、街を破壊するだけではなく、人間の内面まで破壊しつくしてしまう。 p.285 ジャックデリダの言葉が印象にのこった。 「幽霊たちとの面談=維持、交際、仲間ずきあいのなかで、幽霊たちとの交流なき交流のなかで、幽霊とともに生きることを学ぶ=教えること」 「亡霊的な別の誰かは我々をまなざしており、われわれはそのものによって眼差さえているのを感じている」 私は、亡くなった知り合いや家族は死んだ後も、私の内に生きているという感覚がある。何らかの暴力で命を落としてしまった人のことを本で知ると、その人達も私の内側を生きる。だから、私は一人で生きているのではなくて、沢山の死人とともに生きている。 デリダの言うところの、「幽霊とともに生きる」から、彼らに応答しなければならないと思うし、それが命のバトンを受け継ぐということだと思う
くりこ@kurikomone2025年12月27日まだ読んでるp.272までよむ 本をたくさん読めば読むほど、他人がどう世界を見ているか理解できるようになると思うのだけど、p.236に似たようなことが書かれていた。 私は本を通して他人からバトンをもらっている感覚がある。 ーー 原爆文学、沖縄文学研究が専門の村上陽子は、「出来事の残響ー原爆文学と沖縄文学』のなかで、「他者の体験」と向きあうことと文学の関係について、「出来事の後に書かれた文学を読むことは、言葉を通して他者の体験を生き、言葉にならない残響としての呼びかけを聞き取ることにほかならない」と述べている



くりこ@kurikomone2025年12月25日まだ読んでる多和田葉子さん「献灯使」論 p.181 以下の文章に心を打たれた。癖で共感ベースで話を進めてしまうのだけど、本当は違う意見を尊重し合える仲が素晴らしいと思う。(フランスでは相手の話にたいして、「No、なぜならば…」と話を続けることが普通らしい。相手と私は違うという前提に立てるからこそ、「相手が見ている世界はどうなっているか」という考えをベースに構築されたユマニチュードがフランスで生まれたのだと思う。) ーーーーー 類縁性によって、私たちは、他者が自分と同じか、似ていると感じてしまうことがある。だが、ひとりひとりはあまりにも大きな差異を抱えて生きている。むしろ、現在の言語は、その差異をないものとして、同じ「類」として人びとを位置づけようとする。いったん、私たちは、まったく違う生を生きていると認めてはどうだろうか。互いを尊重できると考えてはどうだろうか。 ーーーー あと、p.201多和田さんの以下の文章、私がしてること!本を読むことで呼吸ができる 暴力的な情報にふりまわされ、溺れそうになりながら生きるわたしたちは、本の中に何百年も何千年も保存された言葉を一つ一つ手にとって吟味することで、居場所をつくることができる。 メディアから流れ出る情報は、爆撃、テロ、殺人の行なわれた場所と死者の数を次々投げつけてくるだけで、自分が何をしたらいいのかをじっくり考える時間は奪われ、ふりまわされ、疲れるだけの日常からどうやって逃れたらいいのかわからなくなる・




くりこ@kurikomone2025年12月22日読み始めた『反トランス差別ブックレット われらはすでに共にある』で岩川ありささんのエッセイに心打たれて借りてきた!かなり分厚い本なのだけど、帯に書いてある言葉だけで泣きそうになる。 傷つくってことは、本質的に言葉を奪われるという事なのでは? トランスジェンダーで性暴力サバイバーの岩川さんがクイア批評をするのは、”クイアな経験を含む私から出発する批評”、つまり物語に自分を見つけ奪われた言葉を奪い返す作業なのだと思う。 序章でのトラウマについての考察も興味深いし、本を読むことで、生き延びている私にとっても、「この私から出発する批評」をするのに参考になりそう。 勇気をもらった文章 p.42 私が語れずにいたことは語ることは出来るか。・・・語れない記憶があるのではなく、聴かれない記憶がある。・・・その声をいかにして聴くのかという問いこそ大事なのだ。 p.53 あたしは、性別の境界の上にとどまり続けてやる。奇妙な存在でありつづけてやる。 ーーー 帯の文書 文学は、語れないことを語ることを可能にすると同時に、人を物語という枠組みから解放する。他人の物語を読み解いていく時の岩川さん独特の真剣さと優しさと丁寧さは、「おまえは生きていてはいけない」というメッセージを受け取らされてしまった人たちのことを一時も忘れることがないからだろう。 多和田葉子





































