Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
不安定
不安定
@unstable_okyt
《今みたいなこんな時代》を楽しく生きられることより、生きにくいと感じられる方が、本当のところ幸せなのではないか。 保坂和志『途方に暮れて、人生論』より 通りすがりにいいねを失礼します
  • 2026年4月5日
    絶対安全文芸批評
    批評の対象として扱われている中で、まだ読んだことのない作家・作品がたくさんある。当たり前と言えば当たり前だけど、まだ出会ったことのない作家が存在しているというのは希望だなと思った。
  • 2026年4月1日
    遠い触覚
    遠い触覚
    神保町の東京堂書店の3階売場の一角に、 『鉄の胡蝶は』の発売を前にしたフェアという触れ込みで、保坂和志の本が並べられていた。 『遠い触覚』は最後の一冊だった。絶版なのか、新刊書店ではおよそ見かけない本だ。そんな本の最後の一冊を手に取ってしまうのは、食卓のおかずの最後の一個を私が食べてしまっていいのか?という逡巡に似たためらいを感じるけれども、いや、でも自分は、それなりに保坂和志の良い読者だという自覚(あるいは、良い読者でありたいという願望)があるので、悪いけど私に読ませてくれと断りを入れながら買った。おかずの喩えに戻るなら、「美味しく食べてみせるから私に食わせてくれ」ということになる。私はこの本を美味しく読んでみせる。
  • 2026年3月31日
    絶対安全文芸批評
    著者と、書評家の豊崎由美との対談が良い。 付箋を貼った箇所をピックアップしてメモ。 ーーー 豊崎 佐藤亜紀さんの『ミノタウロス』みたいにタイトでコストのかかった文章が生み出された背後には、捨てた文章が厖大にあるはずですよ。…捨てたものがどれだけあるかというのが、その人の文章の豊かさにつながると思いますね。 (p.219) 豊崎 巧いあらすじが書けるかどうかは、ちゃんと読めてるか読めてないかにダイレクトにつながります。 (p.221) 豊崎 もともとが音楽家や劇作家の小説家って多いでしょう。そうすると、「小説まで書けるなんて、音楽や演劇は才能のある人がやるもんなんだなあ」と世間は思うわけですよ。ところが、これまで小説家を出発点にしてミュージシャンになった人はいないんです。となると、小説を書く人は随分無能だと思われてしまうのではないか。だから、これからは一度小説家として有名になった後で……。 佐々木 俳優になるとかね(笑)。 豊崎 そうそう。逆が良いと思う。 (p.228)
  • 2026年3月29日
    絶対安全文芸批評
    学生時代に図書館で読んでいた批評の本を、大人になって買って読み直している。 刊行は2008年(自分が図書館で読んでいたのはそれより後)なので、 批評の対象として取り上げられている本のなかで結構な割合のものが今では手に入らなかったりする。読みたいと思った時には遅いということがあるんだな…と改めて実感。
  • 2026年3月27日
    だめ連の働かないでレボリューション!
    裏表紙の紹介文の始まりからして素敵だなと思う。 "30年間、あまり働かずあまり消費しない生き方をしてきた「だめ連」の、"
  • 2026年3月25日
    ぼくは落ち着きがない
    かつて他の読書SNSに投稿していた感想を、少しずつこちらに移植していこうと思う。 ーーー 高校の「図書部」を舞台にした物語。 何か事件が起こるわけでもなく、個性豊かな部員たちの日常が淡々と描かれる。こんなふうに書くと、よくある(本当によくある)ラノベ的世界を想起してしまうけど、この小説が書こうとしている世界は、たぶんそれとは違う。 図書部の面々は、ゆるゆるとした毎日を過ごしている。部室でお茶を飲みつつダベり、漫画の貸し借りをして、「本来の」活動である図書室の貸出業務もおこなう。かつて文科系高校生だった読者であれば「いいなぁ」と嘆息するような日常がいきいきと描かれ、心地良いノスタルジーへと誘う。その一方で、読者がそのノスタルジーの奥底に沈めたものを呼び覚まし、ときおりヒヤッとさせたりもする。 教室の皆に自分が仲間はずれにされているのではない、自分が皆を置き去りにして仲間はずれにしているんだー(中略)そういう逆転の見立てを、部員のうちの気弱そうな何人かは抱いているように見える。(p.97) 「休憩休憩!」部室ではない、図書室内のテーブルで作業をしていた部員全員がほっとした表情。影の薄い浦田は黙って部室に向かった。(p.121) 教室に居場所のなかった自分。そして、安息の地であるはずの文科系コミュニティーの中でさえ、上手く馴染めていなかった自分。 「ラノベ的な」日常ではスルーされがちな、文科系高校生の「苦さ」を、この小説は見逃してはくれない。もちろんそれは、作者が冷淡だからではない。自分たちの「苦さ」を痛いほどに噛み締めて、その上で笑ったり悩んだり怒ったりする彼らに向き合おうとしているからだ。そのためには、彼らの「苦さ」にも向き合わざるを得ない。 現実では劣等感に苛まれ、フィクションでもまっとうに描かれない文科系高校生を文字通り「直視」しようとする誠実なまなざし。この小説の真価はそこにある。 …と、かつて文科系高校生だった自分は思う。
  • 2026年3月22日
    かわうそ堀怪談見習い
    かつて他の読書SNSに投稿していた感想を、少しずつこちらに移植していこうと思う。 まずは、「ホラー」よりも「怪談」という言葉が似合うこの本。 ーーー 不思議なタイトルに惹かれた。 恋愛小説家という肩書きに違和感を覚えた「わたし」が、怪談を書こうと思い立ち、東京を離れて「かわうそ堀」という名前の街に引っ越してくるところから、この小説は始まる。 だから、「かわうそ堀怪談見習い」。 「わたし」は怪談を書くために中学の同級生に取材を始めるが、それから奇妙な出来事に遭遇するようになる。 ゼロ「窓」から始まり、マイナス一「怪談」を経て二七の「鏡の中」まで、29の断章からなる。 小説全体を貫くのは「わたし」の記憶にまつわる謎で、やがてその謎は深まり、ほぐされていく。その過程で、断章のひとつひとつが、派手さはないけど不穏な手触りを「わたし」と読者に残していく。 「わたし」は自らのことを「感情が上がったり下がったりすることが、基本的に苦手だ」というふうに説明する。 そんな性格のためか、奇妙な出来事に遭遇しても、「わたし」はどこか淡々としているように見える。出来事を確かに認知はしているはずだけど、その恐怖に対する姿勢、というか構え方というものが、読者の想像するものとどこか違っている気がしてくる。 たとえばホラー映画であれば、怪異に遭遇する視点人物はだいたい悲鳴を上げる。そうでなくとも恐れおののく。その時観客は、視点人物と同じように悲鳴を上げながらも、同時にどこかで安心しているところがあるのではないか。自分と同じように怖がってくれる人物がいる。しかもその人物は、スクリーンのこちら側ではなく向こう側、つまり怪異と同じ位相にいる。その人物が怪異のすぐそばで悲鳴を上げてくれるから、スクリーンのこちら側にいる自分は、その人物の後から悲鳴を上げればよい。言うなれば、怪異と自分のあいだに少しの隙間ができる。 ところがこの小説では、視点人物にあたる「わたし」は、怪異と同じ位相にいるはずなのに、悲鳴を上げない。怪異と読者とのあいだに、隙間を作ってはくれない。だからこの小説の怪異は、ページのこちら側にいる読者に向かって手を伸ばし、そっと、しかし直接、肌に触れてくるのだ。
  • 2026年3月16日
    暴力の哲学
    暴力の哲学
  • 2026年3月16日
    『百年の孤独』を代わりに読む
    ガルシア=マルケスの『百年の孤独』。 自分は、解説などを除いて625ページまである新潮文庫版を買って、206ページまで読んで、そこで止まってしまった。栞はそこから動いていない。同じ名前や似た名前の人物が出てくる複雑な家系図が頭の中でこんがらがって、挫折してしまった。 そこでこの本を手に取った。 文庫本の帯に三宅香帆がこのようなコメントを寄せている。 "あの名作を読みたいのに挫折してしまった読書人全員にとって、これは希望の書です‼︎" 読んだ。おもしろかった。 ただ、ひとつ書くとしたら、この本は『百年の孤独』のガイドブックではない。『百年の孤独』のあらすじをわかりやすく説明してくれるものではない。ではどういう本か。 文庫本の帯には、保坂和志もコメントを寄せている。 "小説を読むことは「小説を読む時間を生きる」こと。その奇跡がここで起きている。" あるいは、145ページで筆者は次のように書いている。 "「読む」という行為が最初から脱線を孕んでいる…小説を読むと、そのあちこちで何かを思いついたり、思い出したりするものである。次から次へと思い出し、気づけば再び小説に意識は戻っている。これが心地よいのだ。" 小説を読むということは、物語の終着駅に向かって効率的にまっすぐ走っていくことではない。物語のそこかしこで、(自分の場合はどうだろう)(そういえばあの時…)(むかし見たあの映画の…)というふうに脱線して、思考の枝葉を伸ばしていく。そうやって育まれた豊かな時間が「小説を読む時間」ということなのだろう。 そしてこの本は、筆者が『百年の孤独』を読んでいた、その時間の豊かさを丁寧に写し取ったものなのだ。 タイパとか時短とか生産性とか、そういったお寒い概念にそっと中指を立てているようにも思える。 この本は、『百年の孤独』を「読めるようになる本」とは言えないけれども、「読みたくなる本」と言えると思う。 筆者がたびたび引用する『百年の孤独』の文章のなんと魅力的なことか。 自分が今度『百年の孤独』に挑む時には、複雑な家系図を脳内で整理するのは諦めて、その場その場の文章を味わうように読んでみようかと思う。
  • 2026年3月11日
    『百年の孤独』を代わりに読む
    この本の感想を言葉にするには少し時間がかかりそうなので、ひとまずは、読みながら付箋をつけた箇所を抜き書きしておく。 以下引用。 「読む」という行為が最初から脱線を孕んでいる…小説を読むと、そのあちこちで何かを思いついたり、思い出したりするものである。次から次へと思い出し、気づけば再び小説に意識は戻っている。(p.145) スケールが小さいということは、こういう場合に不利だ。何しろシンプルでスケールの大きな話の方が信じられやすいからだ。しかし、本当は話のスケールが小さければ、小さいほど、事実に違いないのである。(p.252) 過去の記憶や思い出も整理しなくてはいけないのだろうか? …ときめきなどなくても、ただ哀しいだけの事実であっても、記憶しつづけるべきことがあるかもしれないではないか。(p.277) 適度な距離を置いて、読み飛ばしてこそ、近眼視的な態度では見えないものが見えたりするかもしれなかったし、それこそが本来の読むということかもしれなかった。一文字もサボらず読めばいいという考え方は甘えに過ぎない。(p.297) 記憶をたどり、思い返すことでさらに恋い焦がれる。すでにそこには存在しないものは、思い出すしかない。(p.319)
  • 2026年3月1日
    『百年の孤独』を代わりに読む
    ふいに出会う文章にハッとさせられる。 ものすごく当たり前だけど、ものすごく大事なこと。 以下引用。 もちろん神父は軽率だったのだ。だから殺されても仕方がない? ほんとうにそうなのだろうか。健全で真面目に生きていなければ、生きていてはいけないのか。軽率な者も、慎重な者も、賢い者も、冗談を言うだけの者も、みな等しく生きている自由があるのではないか? (p.88)
  • 2026年2月21日
    『百年の孤独』を代わりに読む
    少し前に買って積読していたのを、先日読み始めた。 手元にある文庫本の帯には三宅香帆と保坂和志のコメントが載っている。この2人の名前が並ぶことはめったにないのではないか。 著者が読者の「代わりに読」もうとしているガルシアマルケスの『百年の孤独』、自分の場合は途中で頓挫してしまっている。もう一回開いてみようと思う。
  • 2026年2月14日
    暴力の哲学
    暴力の哲学
    「序」を読み終わった。 悪夢のような衆院選の結果にショックを受けた身としては「今読みたかったのはまさにこういう文章だよ!」と拍手したくなる。 以下、引用。 15ページ テロリストの哀しみをうたう詩人も、「銃をとれ」と叫ぶ歌手ももういません。…(略)…怒りと力を誇示するようなデモもひさしく見かけなくなりました。人はそうした「暴力的」なものにうんざりしているともまことしやかに語られる。しかしその一方で、あらゆる犯罪に対して厳罰であたるべきだ、という声が大きくなっています。…(略)…「平和主義」という理想を棄て核武装もみすえつつ軍隊を増強せよといった声も大きくなる一方です。それとともにかつての日本による植民地支配と戦争を肯定する意見もますます大手をふっている。…(略)… これらのことは一見、背反していて無関係のようにおもわれます。しかし決してそうではない。
  • 2026年2月11日
    暴力の哲学
    暴力の哲学
    保坂和志を読んでいて、酒井隆史を読みたくなったので購入。 ジュンク堂書店にて。
  • 2026年2月8日
    途方に暮れて、人生論
    世界が右にぐらりと傾いているらしい 選挙の結果を横目で眺めて、うんざりして 厭世的な気分の時には保坂和志が頼りになる
  • 2026年2月8日
    猫がこなくなった
    そういうことは誰でもすることじゃないか、頭の少し外あたりに大人になっても四六時中話しかけたり話しかけられたりする相手がいる、恋の相手、片想いする相手はそこに入ってくる。
読み込み中...
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved