愛するということ

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- めろんぱん@mero1melon2026年4月5日読み終わった理想論ではあるのかもしれないけど、愛について振り返れた 愛することがどういうことなのかが分かることは、愛せているということなのかもしれない

チクワクウチワワ@maynard_19582026年3月30日かつて読んだ愛は技術なんだそう。この技術というのは、小手先のテクニックという意味ではなくて、精神的に成熟した人間のみが可能とする熟練の技みたいなもの。そして、愛する人を通じて全人類を愛することができ、外界を認識するとどうしても感じてしまう孤独を正しく克服できる。ということと私は解釈しました。 一度では自分の中に落とし込むことはできなかったので、また時間を空けて挑戦したいと思います。

- るんば@hokechoco2026年3月15日読み終わった■全体的な感想 愛するって確かに愛したいと思える人が出てきたら私にはできると思ってた節がどことなくあるなと感じた。でも愛するって技術で、その技術を会得して特定の誰かじゃなくて、身の回りの人々を愛さないといけないって書いてあった。 自分が何も得しない人に対しても愛するという形で何かを与える的なことが書いてあって、果たして私はできるのだろうかと考えてしまったというか。 でも自分を振り返るとあまりにも自己中心的というか、保身的に人と接してきたなと思う。人って話したい生き物じゃん?でも私は何を聞けば良いかわからんから黙って相手が話してくれるのを待つことが多くて。それってすごく相手に対して負担を課してるというか、そこ全然自分考えられてないなと反省した。 結構納得いったというか腑に落ちたのは、神を知るには思考じゃなくて行為ということで、神様への愛を示すためには、正しい生き方をすることらしく、だから宗教を信仰してる人の中でお祈りとか習慣とかを守ってる人達は、そうやって宗教に則った生き方をすることで神様への愛を示してるんだってことかな。 一番肝心の愛し方の説明の部分、時間なくてササっと読み飛ばした所もあるし、ためになる文章が多すぎたから、ちゃんとまた今度時間ある時に読み返したいな。 あとエーリッヒフロム、フロイトめちゃ批判するじゃん。4,5箇所批判してた。 ■印象に残ったフレーズ このようにふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。(P14) 愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛する人とともに生きるという持続的な状態とを、混同していることである。(P14) 現代社会に生きる人びとは、あきらかに失敗を重ねているにもかかわらず、どうして愛するという技術を学ぼうとしないのか、という疑問にたいする答えがある。現代人は心の奥底から愛を求めているくせに、愛よりも重要なことは他にたくさんあると考えているのだ。成功、名誉、富、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギーが費やされてしまうために、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていないのだ。(P16,17) 人間のもっとも強い欲求は、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。(P23) 現代社会は、この没個性的な平等こそが理想であると説く。粒のそろった原子のような人間が必要だからだ。そのほうが、数多く集めても摩擦なしに円滑に働かせることができる。全員が同じ命令にしたがっているにもかかわらず、誰もが、自分は自分の欲求にしたがっているのだと思いこんでいる。現代の大量生産が商品の標準化を必要としているように、現代社会の仕組みは人間の標準化を必要としている。そしてその標準化が「平等」と呼ばれているのだ。(P32) 共機的結合とはおよそ対照的に、成熟した愛は、自分の全体性を個性を保ったままでの結合である。愛は、人間のなかにある能動的な力である。人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる。(P39) 生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ。彼らにとって、与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分のもてる力と豊かさを実感する。この生命力と能力の高まりに、私は喜びをおぼえる。私は自分が生命力にあふれ、惜しみなく費し、いきいきとしているのを実感し、それゆえに喜びをおぼえる。与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎとられるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである。(P39) 愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。この積極的な配慮のないところに愛はない。(P47) 何かを知りたいと思ったとき、子どもはそれをばらばらに分解する。動物をばらばらにすることもよくある。秘密を無理やり引っぱり出そうとして、蝶の羽を残酷にむしりとったりする。この残酷さは、もっと深い何か、つまり物や生命の秘密を知りたいという欲望に動機づけられているのだ。 (P53) 母親は私たちが生まれた家である。自然であり、大地であり、大洋だ。父親はそうした自然の故郷ではない。子どもが生まれてから数年間は、父親は子どもとほとんど関係をもたない。生まれてまもない子どもにとって、父親の重要性は、母親のそれとは比べものにならないほど小さい。父親は自然界を表しているのではなく、人間の生のもう一方の極、すなわち思考、人工物、法と秩序、規律、旅と冒険などの世界を表している。子どもを教育し、世界へつながる道を教えるのが父親である。(P70) 父親の要は条件つきである。「私がおまえを愛するのは、おまえが私の期待に応え、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」というのが、父親の愛の原則である。 (P71) 子どもにたいする母親の態度と父親の態度とのちがいは、子ども自身の必要性に対応している。幼児は、生理的にも精神的にも、母親の無条件の愛と気づかいを必要とするが、六歳をすぎると、父親の愛、権威、導きを必要とするようになる。母親には子どもの安全を守るという役目があり、父親には、社会が押しつけてくるさまざまな問題に対処できるよう、子どもを教え導くという役目がある。 (P71) 母親への愛着から父親への愛着へと移行し、最後には双方が統合されるというこの発達こそが、精神の健康の基礎であり、成熟の達成である。神経症の基本原因は、この発達がうまくいかないことである。(P73) 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。(P76) 無力さは一時的な状態にすぎず、自分の足で立って歩く能力は、人類に共通の恒常的な能力である。(P79) 自分の役に立たない者を愛するときにこそ、愛は開花しはじめる。(P79) 約束の地(大地はつねに母の象徴である)は「乳と蜜の流れる地」として描かれる。乳は愛の第一の側面、すなわち世話と肯定の象徴であり、蜜は人生の甘美さや、人生への愛や、生きていることの幸福を象徴している。たいていの母親は「乳」を与えることはできるが、「蜜」を与えられる母親はごく少数である。蜜を与えられる母親になるためには、たんなる「よい母」であるだけではだめで、幸福な人間でなければならないが、そういう母親はめったにいない。 (P81) ほんとうに愛情深い母親になれるのは、愛することのできる女性、つまり夫、他人の子ども、見知らぬ他人、そして人類全体を愛せる女性だけなのである。そういうふうに人を愛せない女性は、子どもが小さいあいだだけは優しい母親になれるが、ほんとうに愛情深い母親にはなれない。愛情深い母親になれるかなれないかは、すすんで別離に耐えるかどうか、そして別離の後も変わらず愛しつづけられるかどうかによるのである。(P84,85) 恋愛はひとえに個人と個人が惹きつけあうことであり、特定の人間どうしの個別的なものであるという見解も正しいし、恋愛は意志の行為にほかならないという見解も正しい。いや、もっと正確に言うと、どちらも正しくない。それゆえ、恋愛はうまくいかなければ解消すればいいという考え方も、どんなことがあっても解消してはならないという考え方も、ともにまちがっている。(P92) 自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。もしある人が生産的に愛せるなら、その人は自分のことも愛している。他人しか愛せない人は、愛することがまったくできないのである。(P96) 結局のところ、世界を知るただひとつの方法は、思考ではなく、行為、すなわち一体感の経験である。(P119) 神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。 それゆえ、正しい生き方が重んじられる。些細なことも重要なことも合め、生活のすべては、神を知るために捧げられる。(P 119) 現代資本主義はどんな人間を必要としているか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽くことなく費したがる人間、好みが標準化されていて、他からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令にはすすんでしたがい、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分をすすんではめこむような人間である。無理じいせずとも容易に操縦することができ、指導者がいなくとも道から逸れることなく、自分の目的がなくとも、「成功せよ」「休まずに働け」「自分の役目を果たせ」「ただ前を見てすすめ」といった目的にしたがって働く人間である。(P131) 現代人は過去か未来に生き、現在を生きていない。感傷的に幼年時代や母親を思い出したり、将来の幸福なプランを胸に描いたりしている。他人が創作した物語にひたって身代わりの愛を経験するとか、愛を現在から過去あるいは未来に遠ざけるといった、この抽象化され疎外された愛の形が、現実の苦しさや孤独感をやわらげる麻薬のはたらきをしている。(P151) 投射のメカニズムによって、自分自身の問題を避け、その代わりに「愛する」人の欠点や弱点に関心を注ぐという態度も、神経症的な愛のひとつの形である。(P151) 愛するという技術に熟達したいと思ったら、まず、生活のあらゆる場面において、 規律、集中、忍耐の習練を積まなければならない。(P165) 実際、集中できるということは、ひとりきりでいられるということであり、ひとりでいられるようになることは、人を愛せるようになるための必須条件のひとつである。(P167) ひとりでいる努力をしてみれば、それがいかにむずかしいかがわかるはずだ。ひとりでいると、そわそわと落ち着かなくなり、かなりの不安をおぼえさえする。こんなことをしてもなんの価値もない、ばかげている、時間をとられすぎる、などという理屈をこねては、この習練を続けたくないという自分の気持ちを正当化しようとする。(P167) 集中力を身につけるには、くだらない会話、つまりほんとうの会話ではない会話をできるだけ避けることが大切だ。(P169) くだらない会話を避けることと同じくらい重要なのが、悪い仲間を避けることである。 (P169) ゾンビのような人、つまり肉体は生きているが、魂は死んでいるような人も避けるべきだ。また、くだらないことばかり考え、くだらないことばかり話すような人間も 避けたほうがいい。(P170) 他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞 くということである。たいていの人は、相手の話をろくに聞かずに、聞くふりをして は、助言すら与える。相手の話を真剣に受け止めず、したがって真剣に答えない。その 結果、会話しているふたりはどちらも疲れてしまう。そういう人にかぎって、集中して耳を傾けたらもっと疲れるだろうと思いこんでいるが、それは大まちがいだ。どんな活動でも、集中してやれば、人はますます覚醒し、その後には、自然で心地よい疲れがやってくる。(P170) 集中するとは、いまここで、全身で、現在を生きることだ。何かをやっているあいだは、次にやることは考えない。いうまでもなく、いちばん集中力を身につけなければならないのは、愛しあっている者たちだ。彼らは往々にして、さまざまな方法を駆使してたがいに相手から逃げようとするものだが、そうではなく、しっかりとそばにいることを学ばなければならない。(P171) 集中力を身につけるための習練は、最初のうちはひじょうにむずかしく、これではいつまでたっても目的を達成できないのではないかという気分になる。そこで、いうまでもないが、忍耐力が必要となる。何事にも潮時がある。それを知らずに、やみくもに事を急ごうとすると、集中力も、また愛する能力も、絶対に身につかない。(P171) 自分にたいいて敏感にならなければ、集中力は身につかない。(P171) 変化に気づくことと、手近にある、ありとあらゆる理屈を持ち出してその変化を安易に合理化しないことである。それに加えて、内なる声に耳を傾けることだ。なぜ私たちは不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、内なる声はその理由を、たいていすぐに教えてくれる。(P173) 自分の心にたいする感受性となると、はるかにわかりにくい。というのも、ほとんどの人は、精神的に最高の状態にある人間など、一度も会ったことがないだろう。(P173) 愛を達成するためにはまずナルシシズムを克服しなければならない。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。外界の現象はそれ自体では意味をもたず、自分にとって有益か危険かという基準からのみ経験される。(P176) 精神を病んだ人はおしなべて、客観的にものを見る能力が極端に如している。正気を失った人間にとって、存在する唯一の現実は、自分のなかにある、欲望と恐怖がつくりあげた現実である。精神を病んだ人は、外界を自分の内的世界の象徴とみなす。あるいは自分が生み出したものとみなす。(P176) 正気を失った人や眠っている人は、外界を客観的に見ることがまったくできない。しかし私たちはみんな多かれ少なかれ正気を失っており、程度の差はあれ眠っているのであるから、誰も世界を客観的に見ることはできない。言い換えれば、ナルシシズムによって歪められた世界を見ている。(P177) 周知のとおり、私たちはよその国を、どうしても客観的に見ることができない。よその国は堕落しきった極悪非道な国のように見え、自分の国はあらゆる善と高貴さを代表しているように見える。敵の行動を評価するときと、自分たちの行動を評価するときとでは、それぞれちがう物差しを使う。敵がどんなによいことをしても、あれは世界を欺こうとする特別の邪悪さのあらわれにちがいないと思ってしまう。反対に、自分たちが悪いことをしても、それは必要なことであり、立派な目的のためだから仕方がない、というふうに考える。結局のところ、国際関係においても、人間関係においても、客観性はまれにしか見られず、相手のイメージは多かれ少なかれナルシシズムによって歪められている、と結論せざるをえない。(P178,179) 客観的に考える能力、それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。子どものときに抱いていた全知全能への夢から覚め、謙虚さを身につけたときにはじめて、自分の理性を働かせることができ、客観的にものを見ることができるようになる。(P179) 人を愛するためには、ある程度ナルシシズムから抜け出ていることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。自分の生活全体をこの目的に捧げなければならない。(P179) どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。(P179) 人を愛せるかどうかは、ナルシシズムや、母親や身内にたいする近親相姦的な病的執着から、どれくらい抜け出ているかによる。また、外の世界や自分自身との関係において生産的な方向性を育てる能力が、どれくらい身についているかにもよる。(P180) 愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのだ。(P180) 他人を「信じる」ことは、その人の基本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。(P183) 自分を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念をもっている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信をもてるからだ。(P184) 安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、念をもてない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことで安全をはかろうとする人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。(P188) 人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。(P190) 愛は能動である。(P190) 退屈したり退屈させたりしないことは、人を愛するための大事な条件のひとつだ。思考においても感情においても能動的になり、一日じゅう目と耳を駆使すること、そして、なんでも受けとったまま溜めこむとか、たんに時間を無駄に過ごすといった、内的な怠慢を避けること、これが、愛の技術の習練にとって欠かせない条件のひと つである。(P191) 人を愛す るためには、精神を集中し、意識を覚醒させ、生命力を高めなくてはならない。そしてそのためには、生活の他の面でも生産的かつ能動的でなければならない。(P191) 私が証明しようとしたのは、愛こそが、いかに生きるべきかという問いにたいする唯一の健全で満足のいく答えだということ(P197) 例外的・個人的な現象としてだけでなく、社会的な現象としても、愛の可能性を信じることは、人間の本性そのものへの洞察にもとづいた、理にかなった念なのである。(P198)

本を読む大学生@sakura_zzz2026年3月3日読み終わった愛は技術だ。 なるほど。こういうつらつらと長い文章は苦手だけど面白かった。ただ事前知識が如何せん0に等しかったので点と点がそれほど多く線にはならなかった。フロムの他の文章も読んでみよう。
itshin@it_shine2026年2月11日読み終わった5年前くらいに読んでいて、再読。 以前読んだ時とは、印象が違っていた。前はすごく感心して読んでいたし、この本に希望を持ったのだけど、今回はなんだか打ちひしがれてしまった。なんだろうこれは。 愛する技術について書かれていたとはあまり思えなくて。いや、書いてあったのだけど、なんでか自分の中に入ってこなかった。不思議。 読んでいる自分が変わったのだろうな。本の方は変わっていない。自分の、社会や人々との関係性が変わったからなのだろう。今の方が人に対して不信感を持っているのかもしれない。 また数年したら読み返してみよう。そうしたらまた印象が変わっているのだと思う。





hachi@chisana_otsumu2026年2月8日読み終わったこの本を手に取る人間は既に愛に溢れている 愛を考える時が愛に満ちている時 不足を感じるその余白にあるものもまた 形を変えた愛だと思う
C@c2026年1月14日読み終わった「愛は技術である」という論、デカ感銘なだけに異性愛中心主義滲み出てる部分が精神的にキツ〜……になってしまったけど、訳者さんによるあとがきでそこにきっちり触れてくれて読後感回復した 良かった フロムの他の著書も読みたいが、やっぱ同性愛=病気の時代の本は名著でも読むの覚悟いる でも今回はセーフ! 読んで良かったとちゃんと言える 訳者さんの誠実さに感謝


C@c2026年1月13日読んでる時代観的に&私のセクシュアリティ的にあんま腑に落ちない解説もあったけど、総合的には有意義な洞察がいっぱいあってオモロ〜 3章まで読んだけど、今のところ体感「愛についての解説→フロイト批判→愛についての解説→フロイト批判→愛についての解説→フロイト批判」て感じ この人にとってフロイトて相当デカいな
shuhei_shuhei@shuhei_shuhei2026年1月7日(印象的なフレーズ) ◯愛とは技術である ◯自分を愛し、同時に他の全ての人を等しく愛する人は、偉大であり、正しい ◯愛はもらうものではなく与えるもの ◯愛を与えることで相手に愛が生まれる ◯個人的なこと、幼稚っぽさを打ち明けるなどで得られる親密さは一時的なもの ◯自分を愛し、同時に他の全ての人を等しく愛する人は、偉大であり、正しい ◯ 人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかしか愛せない ◯ それぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる 能動的に動いて、本当に愛を与えられる人になりたいと思った!
































