

イシイルカ
@ishiiruka0421
積ん読は減らない(kindle派なので積ん読は「積んドル」と呼んどる)それなのに読みたい本は日々指数関数的に増えていく。嗚呼、困った困った(困ってない)
- 1900年1月1日
高校事変 IV(4)松岡圭祐読み終わった腹違いの弟の無念を晴らすべく、いつもの彼女のお馴染みの反応からすれば、かなり意外とも思える行動をとり始める結衣。 今回のお相手は在日韓国系半グレ狂暴集団。 反日の思想で暴徒化してるからたちが悪い。 京都での放火事件の悲劇の記憶が、この作品自体にも、そしてあの日から日本の社会全体にもずっと漂う陰鬱としたムードとして覆う。 「身勝手な理由で人命を奪いたがる腐った輩どもに、大量殺戮の手段を提供するのは許されない。」 まあいつもながら人がコロコロと死ぬ。 校舎では桁違いの殺人術を体得した結衣が縦横無尽に半グレ高校生どもをぶち殺していく 「消火器をミサイルに変えるとは、いったいどんな人生を送れば、優莉結衣のような女子高生になるというのか。」 世界の格闘技、武器、殺人兵器展示会のような学校。 毎度ながらこの作者の懐の深さに感心してしまう。 2025/11/30 - 1900年1月1日
読み終わっためでたく大学生になり、膳所から京大に通うようになってもやはり成瀬は成瀬のままのようで安心した。 コタツに鍋、更には林檎サイズの達磨とか、もう完全に森見ワールドである。 なんだろうこれは森見登美彦作品に対する愛情吐露、いわばオマージュ作品なのかも。 いずれにせよ、『夜は短し歩けよ乙女』を始め、森見登美彦作品をある程度以上読み尽くしていないとその面白さは当然、意味すらわからない展開かもしれない。 森見氏にしろ万城目氏にしろ、京大出身の作家にはおなじみの鴨川デルタ。わたしみたいな地方出身者にはさぞかし素晴らしい場所なのだろうと想像するが、お三方のその描写からは特に素敵なところと思ってる風でもない。さらっとしてる。そこが魅力。 「ぼきののか」動画配信全盛時代をリアルに描く。ちょっとしたことですぐ過剰に反応されてしてしまう恐ろしさ。ネットの炎上に対して最高にしびれる切り返しをする成瀬。見事な最適解。さす成。 前作の「成瀬の父」に続き、「成瀬の母」。ローカルテレビの取材で、成瀬の母親の何気ない言葉が心にしみる。小学6年生時の三者面談。心無い担任の態度と、母の返答。ずっとその言葉に感謝していたという成瀬。 西浦くんとのデート。なんとももどかしく、そりゃそうなるよなとは思いつつ、頑張れ西浦!と声をかけたくなる。 最後の章でようやく島崎が登場。やはり彼女が出てこないと我らが愛するゼゼカラではない。 そして篠原さん。頼れる先輩、カッコいい。みんないいキャラクターだよなあ。 そして島崎のピンチに颯爽と現れる成瀬! 読み終わってしまうのが切なく、勿体なくて頁を繰る手が遅々として進まない。 ほんとに終わってしまうのかあ、成瀬を始め、この愛すべき登場人物たち、成瀬によって照らされる個性あふれる人たちとはもう会えないのかと思うと本当に寂しい。 2025/12/02 - 1900年1月1日
四月になれば彼女は川村元気読み終わった女というものは、いや、というか男もだな、つまり人間というのは例外なく自分勝手で利己的で打算的な生き物なのだ、ということを思い知らされるような切ない切ない悲恋のラブストーリー。 April, come she will When streams are ripe and swelled with rain サイモン&ガーファンクルの歌が染みる 2025/12/04 - 1900年1月1日
たゆたえども沈まず原田マハ読み終わった明治の始めに果敢にも憧れのフランスパリへと渡った林忠正、そして彼を追いかけてパリに渡った弟子という設定で加納重吉。二人の日本人が登場。 歴史的事実と創作を交えて偉大な芸術家たちを描く原田マハさんの真骨頂。舞台は花の都。セーヌ川。たゆたえども沈まず。 印象派の台頭が始まるパリの美術界、そしてゴッホの弟、テオの、情緒不安定な兄と家族を支えていかねばならない環境と、兄の芸術性の真の、そしてその当時唯一の理解者であることの苦悩。 歌川広重の浮世絵は、フィンセント・ファン・ゴッホ美術館が所蔵している作品を、先日上野の東京都美術館で「ゴッホ展 家族がつないだ画家の夢」にて見ることができた。 このジャポニズムがフィンセントに与えた大きな大きな影響に思いを馳せる機会だった。 はるか日本から海を渡り辿り着いた「タンギー爺さん」の背景に描かれている浮世絵。そこには幾多の人々の人生が。なんかもうロマンしかない。 ムッシュ・アヤシこと林忠正の洞察力。ゴーギャンの椅子とゴッホの椅子を見て彼ら二人に起こったことを言い当て、更にはテオとヨーの結婚によるフィンセントの破滅を予言する。 作者の原田さんはフィンセント・ファン・ゴッホの死についてあくまでもフィクションとして別の作品で独自の解釈、物語を創作しているけれど、謎の多い画家の最後は我々にいろんな想像をさせる。 存命の間にはたった一つの作品しか売れなかった不遇の画家の生涯。 またしても引き込まれた。 2025/12/05 - 1900年1月1日
みずもかえでも関かおる読み終わったなるほどタイトルは水に楓。家紋か。美しい。 一生に一度の、失敗すれば取り返しのつかない作業を延々と続けるプレッシャー。 気難しい客の要望に応え、必死でシャッターを切る緊迫感は身につまされる。 今となってはシャッター音など無いカメラがほとんどなので、このような高座の緊迫感はおそらく存在しないのだろうけれど、演者と、その一瞬を切り取ろうとする真剣勝負は尊い。 写真の基礎、何をどうすれば映る画像がどう変わるのかという知識は、なんでもカメラがやってくれる現代では割と忘れられがちだけれども、その基礎が身体に染み付いている人と、ぽっと出の素人同然の新人とでは、全く違う。 そういうところをちゃんと描写してくれるのは好ましい。 叱られたり怒られることを極端に恐れる現代の若者、まるで存在そのものを全否定されるかのように忌避する姿は、なんともジェネレーションギャップを感じるところではある。 やる気はあるものの注意散漫や集中力の欠如、学習障害などで周りに誤解を与えるハンディを持つアシスタントを、なんとか一人前にしようと考える姿は、傍目には理不尽なことが多い演芸界の師弟制度とは対照的でなんとも感慨深い。 言葉には出さないけれど、ちゃんと見ていたよ、見守っていたんだよ、というラストシーンは、とても感動的で美しかった。 2025/12/08 - 1900年1月1日
人生の旅をゆく(2)よしもとばなな読み終わった相変わらずばななさんのエッセイは心に染みる。 スピリチュアルや、やや突拍子もないことを言ったりやったり書いたりすることもある方だけれど、それが嫌な感じはしないのが人徳かなあ。 震災の頃は確かに世の中がこんな雰囲気だったよなあ、という感慨が。 2025/12/01 - 1900年1月1日
水車小屋のネネ津村記久子読み終わった健気にもまだ幼い妹を連れてふたりで暮らして行こうと決める、高校を卒業したばかりの姉。 勤め先の蕎麦屋は人の言葉を上手に話すヨウムが石臼の番をするという風変わりな場所。そのヨウムのネネの相手をするのが彼女の仕事のひとつでもある。 育った環境もあるのか実際の年齢の割には大人びた言動をする妹のりっちゃんこと律と、無責任で呆れた母親に翻弄されるしっかり者のお姉さん、理佐のコンビは危なっかしいように見えてきちんと周囲との絶妙なバランスを保って生き抜いて言ってるように見える。 コツコツと爪に火を点すようにお金を貯めて小さな冷蔵庫を買い、学校でいじめられようがふたりで懸命に生きていく姉妹の姿は胸を打つ。 第二話になり、急に律が大人の女性になっていてニルヴァーナなんか聴くようになっていて驚く。 波のように姉妹ふたりが翻弄された第一話とうってかわって、静かに穏やかに物語は進む。 そして台風の夜。 聡という青年と姉妹の微妙な距離感。間にネネが。 常にさらっとした描写だけれどもそこに出てくる音楽はかなり渋くていい曲ばかり。 そして第三話。更に八年が経過する。 蕎麦屋の閉店、そして夫婦になった理佐と聡。 ネネと律。 そして新たなる水車小屋のメンバーとなる研司くんが、かなりの事件性とともに登場。 律が自らの中学生時代を思い起こし、姉の苦労や勇気を考えて、彼の勉強をみてあげる様子は、ずっと姉妹の生活を読んでいた身としては微笑ましいし、とても律らしいなあ、とも思う。 藤沢先生の言う 「誰かに親切にしなきゃ、人生は長くて退屈なものですよ」という言葉が沁みる。 最後の第四話。 2011年。震災の年。 寛美さんのように、あの日、気持ちが暗くなるニュースを職業として延々と伝えなければならなかった人々のことを思う。 震災、そしてコロナ禍と、登場人物たちを巡る年月は流れていき、いなくなってしまった人は思い出の中に、優しい記憶として残っていく。 いい物語だったなあ。 2025/12/13 - 1900年1月1日
- 1900年1月1日
灰夜大沢在昌読み終わった舞台はいつもの新宿歌舞伎町界隈ではなく、あの宮本の故郷である地方都市。作中はっきりとした言及はないがおそらくは鹿児島。 彼の六回忌の法要に鮫島がこの地を訪れるところから今回の話は始まる。 帳面も意味を持たない管轄外の土地で、孤軍奮闘(はいつものことだが)ニューナンブどころか特殊警棒もなく徒手空拳で、地元ヤクザや地元でないヤクザ、北の工作員、悪徳刑事、公安と丁々発止で立ち回る鮫島。 地元ヤクザのゴリゴリの薩摩弁。おそらく幕末の京都もこげんな意味のわからぬ言葉で市内を席巻していた尊皇攘夷の輩に辟易してたんではなかろうかねえ。じゃっと。 2026/01/28 - 1900年1月1日
イモータル萩耿介読み終わったインドで消息を絶った兄の声に導かれるように『智慧の書』と共にインドへ。 精神的に追い詰められつつある主人公と共に、読者は時空を超えて同時に『智慧の書』を巡る歴史を追体験するような不思議な小説。 舞台はフランス革命時代のパリ。王立図書館の研究員が主人公となる。彼がインドで入手した「ウパニシャッド」をその生涯をかけてペルシャ語からラテン語へと翻訳する男。 日々の生活にも困窮し、弟に無心するような彼が命がけで翻訳した『ウパニシャッド』は、最後に偶然なのか運命なのか自らの手で少年ショーペンハウアーへ。 『意志と表象としての世界』へと続く系譜。 舞台は変わり、時代はさかのぼって16世紀から19世紀までインドの殆どを支配したトルコ系イスラム王朝のムガル帝国。 そこでまたしても命がけで古代インドの経典「ウパニシャッド」を、サンスクリット語からペルシャ語へと翻訳する皇帝の第一皇子の生涯が描かれる。 政治などの現実的な事柄から逃避して星を愛で、自然を愛し、ヒンズー教を始めとするイスラムからすれば異教を研究する事に執着するシコー。 皇帝である父が衰え、皇位を狙う兄弟にとうとう追い詰められて処刑される。 彼の生涯をかけた書物はやがて・・・。 終章にて舞台は三度現代へ戻る。タージ・マハルから日本へと帰る空港。日本からの電話で現実に引き戻される主人公。 佐藤優氏の帯の煽りは「哲学」に力点をおいていた気がするが、たしかに哲学と宗教がテーマであることは間違いないのだろうけれど、どちらかというとファンタジーのような、歴史のロマンというか、一冊の宗教書に文字通り取り憑かれた男たちの壮大なロマンのような印象を受けた。 ところで書影の象、あれアフリカゾウじゃないですかね? 物語上、インドゾウじゃなきゃおかしい気がするけれど。 2026/02/03 - 1900年1月1日
猫を処方いたします。石田祥読み終わった京都の町並みと京言葉。 そして京都独特の住所表示に従って行き着く奇妙な心療内科と、そこで処方として渡される猫。 驚くほど、あれほど苦しんでいた患者たちが、猫の存在によって癒やされ、救われていく。 物語が進むにつれて、件の病院と医者、看護婦がだんだんが得体のしれない謎の存在に。 普段着で髪を下ろした芸妓さんに「嫌やわ。うちは本気どすえ」などと言われたら前後の文脈は関係なく痺れるなあ。 わたしも猫を処方してほしい。 2026/02/13 - 1900年1月1日
閃光のハサウェイ(上) 機動戦士ガンダム富野由悠季読み終わったおよそ30年ぶりに。 劇場版のストーリーの背景や台詞に、よくわからない部分があったのでこの機会に(劇場版第二作のタイアップでかなりのセール)読み返してみる。 当然ながら、以前読んだ(はず)の一連の富野氏自らのノベライズ作品は、まだ世の中に電子書籍などない時代、角川スニーカー文庫で読んだ(はず)。 専業作家ではないから仕方がないとは言え、正直なことを言えば、お世辞にも文章が上手いとは言えない富野由悠季氏だけれど、ある意味では彼の味というか、まるで中学生が大学ノートに脳内の妄想を書き殴ったような不思議な「てにをは」やオノマトペ、ギャブン!とかギャルルルという幼稚な擬音、登場人物が好き勝手に心の声をセリフとして喋ってるような難解な独白会話、などなど若書きにも程がある筆致に、これぞ富野節だよなあ、などとある種の感激すら覚えてしまう。 2026/02/06 - 1900年1月1日
C線上のアリア湊かなえ読み終わった物語の後ろに流れるビートルズ、そして村上春樹の『ノルウェイの森』 上下巻の作品の下巻だけ読むという、想像を絶する話に戸惑う。 その行為が、あたかもよく知っていたはずの育ての親でもある叔母の人生の前半を、あとからその日記によって知るということとシンクロする。 「姑という生き物は、その立場になった途端、すべての人に厳しくなるわけではないということも。たった一人、嫁にだけつらく当たるようになるのだ」 認知症で記憶や言動が制限されていることをミステリのモチーフにするという設定に度肝を抜かれた。 2026/03/22 - 1900年1月1日
マチネの終わりに平野啓一郎読み終わった十分に分別ある大人同士の恋愛というものが、どういうふうに、周囲の雑音から逃れて発展するものなのだろうかという興味で読みすすめる。 ひとつの言葉の意味とか、ニュアンスとか、タイミングとか。 色んな要素が複雑に絡み合うその機微はなんとももどかしく、そして尊い。 愛し合う二人を引き裂く醜い嫉妬ゆえの幼稚な悪意。 偽メールにより生まれる誤解とすれ違い、もどかしい気持ちのやりとりがあまりにも切ない。 そして読者としてそれだけは勘弁してくれと願っていた三谷との結婚。洋子とリチャードとの復縁よりも遥かにショックを受ける。 2年という長い時間をかけて徐々に蒔野が壊れていく、明らかに駄目になっていく姿を見るのは辛い。 ボタンの掛け違いに次ぐ掛け違い。 皮肉な現実の様相に、翻弄されている二人。 正直言って、主人公の二人を始め、どの登場人物の考えていることも自分には理解し難いし、感情の起伏も、その行動原理に至ってはもっと分からない。 自らを裏切り、くだらない嫉妬によって愛し合っている二人の間を引き裂いて自分のものにするという卑劣な所業を、その後献身的な愛を受けたからといってそうですか、と許してしまえるものなのか。 なるほどねえ、へえ、そういうもんなのか、という感想。 大人の恋愛って難しいんだなあ。 2025/12/25 - 1900年1月1日
何者朝井リョウ読み終わったやったことないから皆目わからないけれど、就活って辛そう。とてもじゃないが自分には無理だな。 しかも現代のSNS全盛世界。 人と人との繋がりはSNSを抜きにしては、ほとんど何も語れないほど。 表のアカウントの綺麗事と、裏アカのドロドロとした本音。 こんなにプレッシャーとストレスのかかる世界に彼ら、彼女たちは生きていて、傍目には報われない努力にも見える就活で神経をすり減らしているんだ、と思うとなんだか不憫にもなる。 とはいえまだ何者でもない彼らが、必死に自分が「何者」であるかを証明できたとして、それで何か幸せになる近道や保証ができるわけでもなく。 人生は辛く厳しいよなあ。 仲が良い友人のように見えて、その腹の中では内定をもらう苛烈な競争、いうなればみんなライバル、ともすればはっきり敵、という関係。言葉尻に悪意や嫉みや妬みや羨望が見え隠れするこんな集まりに参加したくはないけれども。 ほんのちょっとだけ、彼らの若さというか稚さが羨ましくも思った。 NANIMONOという裏アカで周りを冷笑していた拓人の姿が最後に明かされて、痛々しく思ってた高良よりもさらに輪をかけて痛かったという事実、なるほどこれはしんどいな、それとこの作者の綿密で周到な仕掛けに戦慄した。 2025/12/25 - 1900年1月1日
虹の岬の喫茶店森沢明夫読み終わった迷ったらロッケンロールな道をえらぶ。 どっちがロッケンロールかな? 森沢さんの作品は、毎回人の涙腺を崩壊させにくるから油断ができない。 この作品もひとつの章それぞれに、印象的な音楽、楽曲とともに我々を泣かせる号泣させるポイントが。 2025/12/28 - 1900年1月1日
日本全国 ソウルフードを食べにいく (文春e-book)飯窪敏彦・写真・文読み終わった東から西へ。 最後、沖縄に結構なページ数を割いているのが印象的でした。 おでん東大。 うーん、哀しい。 2026/01/13 - 1900年1月1日
読み終わった前作に引き続き、週刊文春で連載されている杉本昌隆八段のエッセイ。 藤井聡太という人物は自分のことを積極的にアピールしたりしない人なので、こういう彼の素の姿を垣間見ることができる師匠の優しい視点、眼差しはいちファンとしてとてもありがたい。 藤井聡太とライバルたち、というサブタイトルはあるものの、現実的に彼のライバルと言える棋士は、今や伊藤匠二冠と永瀬拓矢九段以外には存在しないかもしれない。それ程まで彼らのレベルは他との差が付いてしまっている。 従ってこのエッセイの中にも伊藤、永瀬両名以外の棋士の名はほとんど出てこない。 藤井聡太は求道者というか、一つの勝ち負けを超越した高みを目指して将棋を指しているようなところが感じられるので、ときにこの人は本当に人間なのかな?と思ってしまうようなときもあるが、師匠との関係性を見ると、ちょっと安心する。 本当にいい師匠を持ったなあ、ラッキーだったよなあ、と思う。 将棋そのものは完全に彼の努力と才能の結果だが、あの師匠とめぐり逢い、杉本昌隆を選んだのは彼の幸運、彼風に言えば僥倖だと思っている。 2026/01/14 - 1900年1月1日
- 1900年1月1日
ただいま神様当番青山美智子読み終わったまるで幼児のような言動の、老人の格好をした「神様」を楽しませるといった、突然降って湧いたミッション。 坂下のバス停で毎朝顔を合わせる面々に順番にやってくる「神様」 それぞれに美しい温かい物語を用意する。 青山さんらしい優しいストーリー。 2026/01/04
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