

JUNYA WARASHINA
@junya-warashina
《鍵穴を覗くと、そこには“グリーン”と呼ばれる猫がいる。》
- 2026年5月25日
秋 (新潮クレスト・ブックス)アリ・スミス,木原善彦読み始めた巡る季節と記憶、時間の断片が軽やかに交差する。 確かな物語に回収されない揺らぎの中で、何が「今」として立ち上がるのか——その語感に触れてみたい。 - 2026年5月25日
逃亡派 (EXLIBRIS)オルガ・トカルチュク,小椋彩読み始めた身体と移動、境界の揺らぎをめぐる断章の連なり。世界から逸脱しながら、なお存在し続けようとする意志——その静かな運動に触れるのが楽しみ。 - 2026年5月25日
星の時クラリッセ・リスペクトル,福嶋伸洋読み終わった何も持たない少女が、語られることでほんの一瞬だけ存在して、また消えていく——この静かな残酷さが、本書の全てを語っている。 ブラジルの最底辺に生きるマカベーアは、夢も野心も比べる相手すら持たないまま、ただそこに在る。 彼女をどうしても書かずにいられない語り手がいて、語られることで彼女はほんの一瞬だけ輝く。 言葉は存在を召喚する呪文だ。しかしリスペクトルは、その魔力を行使しながら、同時にその幻想性を静かに暴いていく。 物語の終わりに彼女が触れる光は、神からの恩寵か、言語が生んだ幻か。 - 2026年5月24日
工場小山田浩子読んでるどこにでもありそうなのに、 どこにも着地していない感じ。 説明しきれない居心地の悪い、楽しさがある。 『工場』は、巨大な「意味の空白」を扱った、ユーモアに満ちた小説だ。 何を生産しているのかも曖昧な工場で、人々は淡々と働き、食べ、少しずつ風景へ同化していく。彼らの日々の営みは、どこか書き割りのようなぎこちなさを持つ。たとえば、屋上緑化推進室でひたすら苔を育てる古笛よしお。奇妙なのに滑稽で、どこか可愛く、じわりと不穏。 カフカが「不条理な権力」を描いたとすれば、小山田浩子が描くのは、権力の輪郭すら見えない、隣町的資本主義の霧のようなものだ。そこには、奇妙なノスタルジーさえ漂っている。 読み進めるうちに、自分の日常もまた不確で奇妙なものへと変容していく──そんな可笑しみに包まれる。 - 2026年5月19日
蛇を踏む (文春文庫)川上弘美読み終わったある日、蛇を踏んだら、そのまま人の姿になって「一緒に住むこと」になる。 書いてみるとかなり奇妙なのに、不思議とすんなり受け入れてしまう。 説明もないし、理由も語られない。 でも、その曖昧さが心地いい。 淡々としていて、少し乾いていて、どこかユーモラス。 雨月物語に通じる江戸文学的な軽やかさで、不思議な出来事はただそこにあるものとして流れていく。 気づくと、「変なことが起きているはずなのに、普通に読んでいる自分」がいる。 - 2026年5月19日
尾崎翠集成(上)中野翠,尾崎翠読み終わった『歩行』(収録作品) 祖母に頼まれて、お萩を届けにいく——ただそれだけのはずなのに、なぜかずっと妙な感じが続く。 道を歩いているだけなのに、景色も人も、少しずつ現実からずれていく。 登場人物たちはどこかぎこちなく、妙に戯曲的だ。 読んでいるうちに気づくのは、 「何も起きていないのに、ずっと落ち着かない」という感覚。 夢の中のようにぼんやりしているのに、神経だけが研ぎ澄まされている。 そのアンバランスさが、乾いたユーモアとして静かに漂う。 気づけば、「私」と一緒に、どこにも辿り着かないまま秋の風の中を歩いている。 - 2026年5月18日
犬婿入り多和田葉子読み終わった北村みつこの前に現れる謎の男・太郎。人とも獣ともつかないその存在は、『南総里見八犬伝』が示した「犬との婚姻=異界への通路」という古い記憶を、静かに呼び覚ます。 この物語の不気味さは、異形の存在そのものではなく、みつこが太郎をあまりにも自然に受け入れてしまうことにある。世界の綻びは見えている。なのに誰も、それを破綻とは呼ばない。噂は歪みながら共同体に吸収され、日常はそのまま続いていく。 異界を飼い慣らしたのは、人間の側だったのか。それとも——気づかないうちに、飼い慣らされていたのは私たちの方だったのか。 多和田葉子は、その答えをあえて手渡さない。 - 2026年5月18日
ほとんど記憶のない女リディア・デイヴィス,岸本佐知子読み終わった大きな出来事が起きるわけでもなく、感情を激しく説明するわけでもない。この本に収められた短編は、驚くほど静か。 ただ、誰かの会話や小さな違和感、日常の断片が、淡々と置かれていく。けれど読んでいるうちに、現実が少しずつずれて見えてくる。 彼女の文章は、固定カメラで撮られた映画みたいだ。長回しの静かなシーンを見つめているうちに、些細な沈黙や視線の揺れが妙に気になってくる。細部はとても正確なのに、どこかだけ微かに噛み合っていない。その小さなズレが、気づけばこちらの感覚まで静かに揺らしてくる。 リディア・デイヴィスは、感情を説明する作家ではない。むしろ余計な装飾を削ぎ落としていく。ただ、不思議なことに、削ぎ落とされた言葉たちの奥から、日常そのものがひとつの寓話みたいに立ち上がってくる。 読後に残るのは感動というより、「いつもの世界が少し変に見える感覚」。 そんな種類の短編集。 - 2026年5月18日
エストニア紀行梨木香歩読み終わった旅の記録でありながら、どこか異界の入口を歩いているような感覚。 梨木香歩は、植物や鳥たちの気配を、「人間の外側にある別の時間」として見つめているのかもしれない。 エストニアという土地もまた不思議だ。深い森や古い民間信仰、幽霊の気配のようなものが、現代の暮らしの中に静かに溶け込んでいる。 その境界の曖昧さを、梨木香歩は嬉しそうに、静かに歩いていく。 派手な出来事はない。 ただ、読んでいると、自分の感覚まで少しだけ森に近づいていくような紀行文。 - 2026年5月17日
ベル・ジャーシルヴィア・プラス,小澤身和子読み終わった完璧に見える人生の中で、息ができなくなることがある。 シルヴィア・プラスの半自伝的小説『ベル・ジャー』の主人公、エスター・グリーンウッドは優秀で、憧れのニューヨークでのインターンも掴んだ。傍から見れば、順風満帆な女性だ。でも彼女は、どこにいても少しだけ息苦しい。「こうあるべき」という期待と、本当に望むものの間で、その歪みはやがて身体に滲み出ていく。 タイトルの「ベル・ジャー」とは、密閉された鐘型のガラス瓶のこと。自分だけが薄い空気の中に閉じ込められているような、あの感覚だ。均衡を失いながらも自分を確かめようとする彼女には、ベル・ジャーに映った歪んだ顔を見て力なく笑うような、空虚なユーモアが漂っている。 それでも心臓は、鳴り続ける。 “I am, I am, I am.”(私は、私は、私は。) これは破滅に向かう物語ではなく、それでも自分であろうとする意志を静かに肯定する物語だ。60年以上前に書かれたこの小説が、いまなお世界中で読まれ続けているのは——ベル・ジャーに映る自分の顔を、確かめたい人がいるからかもしれない。 - 2026年5月17日
赤の自伝アン・カーソン,小磯洋光読み終わった「怪物」なんて、自分で選んだわけじゃない。 アン・カーソンの『赤の自伝』は、ギリシャ神話に登場する怪物ゲリュオンの物語。赤い肌を持ち、英雄ヘラクレスに倒される「負ける側」の存在だ。でもカーソンはここで、その怪物を語り手として生き延びさせる。 「怪物は自分が赤いことを誰のせいにできるだろう?」 この一行がずっと頭に残る。 赤く生まれたことは、誰のせいでもない。でもその赤さは、生きていくうちにどうしても自分の一部になっていく。消せないし、隠しきれない。そういう「自分にしかない何か」を抱えたことがある人なら、この問いはきっと他人事じゃない。 これは怪物の話じゃなくて、自分の中の消せない部分と、どう生きていくかの話かもしれない。火を消すためじゃなく、火を持ったまま生き延びるための物語。
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