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ななり
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@bluebook_mark
エンタメも純文学も
  • 2026年6月27日
    ファイア・ドーム(上)
    感想は下巻読了時にまとめて。
  • 2026年6月23日
    文學界 2026年6月号
    文學界 2026年6月号
    「悪い血」鈴木涼美 例えば美味しいものを食べ終えたときに、例えば綺麗な景色に感激した日の帰路に、例えば大切な人と過ごす時間の僅かな間隙に、ふと「こんな幸福を自分は得ていいのだろうか」と思う瞬間が私にはあります。犯罪に手を染めたことはないけれど、他者を言動によって酷く傷付けたことは幾度かあって、その事は過ぎ去っても尚、というより過ぎ去ったからこそ小さな、しかし深く刺さって抜けない罪悪感の棘としてじくじくと心に残り続けている。この小説の“私”が抱えているものはそれと同種の、けれどより濃く暗い棘ではないだろうか。風俗店で嬢として働き、時々で不特定多数とセックスをし、中学生だった頃には性被害に遭いながらもその対価の現金を受け取ったこともある、性や身体を蔑ろにしてきた自分の内側に、何も選ばなければ(放っておけば)うまれる命が意図しないタイミングで宿った事へのきまりの悪さ。《「何があってもそれに値する罪を自分が背負っていると思うな」》といくら言われても解放には程遠い救われなさ。感覚的な部分に留まる私の後ろめたさと比べて、事実として他でもない自分の血を分けた子どもの存在がある分、彼女が背負うそれらの苦しみは重い。ラストの解釈は読み手に依るところが大きいけれど、少なくとも再び彼女の元に夜は訪れる。ぐるぐると下る煩悶と幻想の螺旋の中で本当に救われる日はやってくるのかどうか。
  • 2026年6月20日
    文學界 2026年 5月号
    「ソリティアおじさんがいた頃」村司侑 タイトルと書き出しに反して、描かれるのは過去ではなく、ソリティアおじさんと呼ばれていた黒野田さんにお世話になっていた恋人の代わりに、彼の通夜へ行くことになった“わたし”の現在の数日間で、はじめはもっと違う適した看板があるんじゃないかと思ったりもしたのですが、読み進めるうちに段々と、この小説には語り手以外の人たちにとっての《ソリティアおじさんがいた頃》も書かれてはいないけれど書かれているのだと感じるようになり考えを改めました。現在からは決して手が届かないのに向こう側からは事ある毎に触れられ影響を受ける過去や記憶という少し理不尽にも思える存在にいつかなる私として私は今日も誰かとともに生きているんだなあとそんなことも思ったり。味噌屋、ソリティア、京都弁といったアイテムの選択も、それに過剰な意味を背負わせず小説から力感を抜く書き方も読んでいて気にならずとても巧かったです。何でもない物語がイコール退屈な物語になる訳ではない、つまり何を書くかではなく、どう書くかによって小説はいくらでも面白く魅力的になる、そのことを示す良い短篇だと思いました。
  • 2026年6月17日
    多類婚姻譚
    多類婚姻譚
    歴史小説や時代小説、あるいはそこまで遡らずとも昭和初期あたりを舞台にした物語を読んでいると、本人たちの意思が蔑ろにされたまま、あっさりと婚姻関係が結ばれるという場面に割りとよく出会います。家格が重要視され、恋愛結婚も稀という不自由な時代はしかし、夫婦になる“だけ”ならば障壁の少ない時代ではあった。それと比べて現代は真逆です。ほとんどの人が家という単位の軛から解放され個人として自由に生きられるようになった一方、本当の夫婦へと続く道には障壁が幾つも立ち塞がり、それに対してふたりで、ときにひとりで向き合わなければならなくなった。セクシュアルマイノリティ、ジェンダーギャップ、貧富の差、思考における性差のずれ。ただ愛している人と婚姻の契約を結びたいという一点の望みが、自由の代償のように遠くなってしまった私たちの切実な祈りが、どうかすべての人たちへ、何よりもこの国のルールを変えられる人たちへ届きますように。そう思わずにはいられない小説でした。
  • 2026年6月11日
    愛子さん
    愛子さん
    空襲で破壊された家々や鉄路も、怯えながら篭った防空壕も戦争が終わればやがて修復と埋め戻しによって以前の姿へと戻されてゆく。それは人々がそこで生活を続けていく以上必要なことではあります。けれど同時に、ほんの少し前まで生傷であったものが、ある日を境にただの痕跡として淡々と処理されるものに変わってしまう戦後という時間に対して、私はどうしても言葉ではうまく表せない蟠りを抱えてしまう。そしてその時間の流れの中で何より悲しく苦しいのは、街がどれほど直され整えられても、戦時下の空気という真に無意味な暴力に毟られ、抉られ、踏み潰されて空けられた心の空洞へは誰も責任を取ってくれず、戻してもくれないということです。終わりを迎えても本当には終わらない戦争をいま新しく始めない為のアクションをこの先も国には選択し続けて欲しいし、私という個人のレベルでも声をあげていきたい。たとえそれが小さくても。
  • 2026年6月5日
    雀ちょっちょ
    為政者による創作や出版への粛清に抵抗し文化そのものに殉ずることは、多くの場合美談として語られがちです。実際その人たちの中にある信念は何物にも代えがたい気高さを湛えたものであると私も思います。では理不尽な力の前に筆を擱くことを選んだ人たちのすべてが、ただ自らの命惜しさのみにすごすごと引き下がってきたのでしょうか。答えは当然、否です。人という生き物は独りで生きているわけではない。だからこそ時に自分自身ではなく友人や愛する人、そして家族を守る為に半身と同義のものを手放す悔しさを選ばなければならない瞬間がある。この小説の主人公である太田南畝を支える人たちは気持ちが良いほどに真っ直ぐで、濁りがなく、そして優しい。江戸に名を馳せるほどの彼が狂歌を辞めてまで守りたいと思った心の動きの説得力としてこれ以上のものはありません。狂歌のささやかなユーモアを混じえながら、人が人を想う気持ちを素直に書いた佳い歴史小説でした。
  • 2026年5月29日
    グロリアソサエテ
    工業の近代化に伴う大量生産によって、手仕事やその文化自体に陰が差し始めた大正後期〜昭和初期と、AIを使えば大量生成が可能となった現代はとても似て見える。民藝運動と柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司ら三人をいま描く意味はそのあたりにあると思います。 出力された創作物全般に対して個人的なことを言えば、私はずっと薄っすら忌避感を持っている。止めろと激烈に怒鳴りつけるほどではない、見ていると何となく居心地が悪くなるそんなレベルのを。労働性(繰り返しの中で得られる技術)や伝統性(先人たちの積み上げによる庇護)、他力性(風土や伝統といった不可視の力による支え)といった民藝品が持つ特性を生成物は殆ど有していないからではないか。読み終えて色々と調べる中で、そんな一つの解答を見つけた気がしました。 一方で民藝運動の中心人物である柳宗悦は、美しいものすべてが民藝品であるとか、あるいは民藝品でなければ美しくないと言っている訳ではないことも、ここには書いておく必要があると思います。なぜなら、彼が何よりも大切にしていたのは、自由で健康な美がもっとも豊かに表れるものが民藝品であり、その美を宿らせる手仕事を守り育てていくことが私たちの生活をより豊かにするという考えであったから。誰もが簡単になにかを作り出すことが可能な世の中で、その考えが、それでも黙々と“手仕事”を続けるすべての創作者たちの灯火をこれからも守るものとして残り続けて欲しいと切に願います。
  • 2026年5月26日
    佐藤の告白
    佐藤の告白
  • 2026年5月23日
    桜葬
    桜葬
    ただ生きているという連続の中で突然降り掛かってきた理不尽に対して、飲まれてしまうのか、はたまた乗り越えていくのか、それは本人の強さや周りに支えてくれる人がいるかどうかで大きく変わってくるもので、当然前者よりも後者である方が望ましいとは思うのだけれど、では飲まれてしまったという結果やそうなってしまった人自身の弱さのみを取り出した時にそれを悪だと言い切れるかというと、少なくとも私には出来ない。どれだけ正しいとされる道や歩き方をしたところで、あるいはそうではあるからこそ余計にそうではない側が自分の立つ薄氷の裏側であることは鮮明に見えてくるものだから。読後に《罪を憎んで人を憎まず》というやや古風なフレーズが浮かんでくるようなオーソドックスで読みやすいミステリだった一方、伏線の配置と回収に相当のエネルギーが使われていて、もうひとつ人間に踏み込めていないようにも感じられました。
  • 2026年5月16日
    けんぐゎい
    けんぐゎい
    人生は選択の連続だ。この言葉が声高に殊更すばらしいもののように語られるほとんどの瞬間、自らの掌中に決定権がある優位性自体に対する俯瞰は尽く排されているように思えてならない。勿論、格言すべてを否定する訳ではない。けれど強い立場の人間が選ぶことによってすぐ隣にいる弱い立場の人(たち)が《選ばされ》てしまう辛苦は、あるいはその強いられた選択を自主性に基づいたものだと己のうちで捻じ曲げて飲み込もうとする自己防衛(本作に於いてはレイプされたことに対する)は、その深さ暗さが深刻だからこそ実相が見えづらく痛切は極まる。疱瘡の後遺症で全身に痘痕が残っている容姿や利発さといったけんぐゎい(普通からの圏外)を理由に性被害を受けた主人公の“ふゆ”が、それら後天的要因≒選んでないものから感じていた引け目と折り合いをつけながら、生来の善しと共に女医者として命がうまれる場所で生きてゆく様には、一人の女性としての決意を見ました。朝倉さんが初めて書いた時代小説は、私がこれまで読んできた他作者の同ジャンルとは少し雰囲気が違っていて、ある種、異形と呼んでもいい作品でとても興味深く読みました。
  • 2026年5月9日
    今度は異性愛
    今度は異性愛
    女性性、個別の時代の中で性別に求められてきたもの、性愛、インターネット文化、ファンタジーとしてのBLの書き方等など扱っている素材は少なくないのだけれど、日記形式が採用されているおかげか一篇として終始情報がぎゅうぎゅう詰めで苦しくなっている感じは薄く、その時々で思考の結晶を手の中で眺めているような雰囲気は、ゆったりしているのにどこかスリリングでもあって不思議でした。じぶんは「読み専」なので、創作者が過去を振り返ったり、信念というかルールみたいなものに基づいて物語を少しずつ構築していく過程には憧れを抱いたり。それから表紙絵にもなっている雌の蜂が花の中で共寝するエピソードがすごく素敵で読み終わった今も印象に残っています。
  • 2026年5月8日
    私たちはたしかに光ってたんだ
    脱線や停滞をしょっちゅう引き起こす軽くて無駄な会話が無駄なままその場に必要なものとして我が物顔で存在している空気感に、嘗ての青春(私のはあまりにもモノトーンでしたが)を思い出し懐かしい気持ちになりました。全力で向き合った結果として自分の限界を知る挫折や、大切な人たちの才能と未来を信じ想うが故に身を引く決断を下す苦しさが、欠片の衒いもなく書かれている部分にはきっと多くの読み手が共感することでしょう。人生の最初に光るより後で光った方がよく見えるのも印象だけの話で本質は何も変わらない、そもそも光らなくていいものなのだから一度でも光れば良い人生、という言葉も真っ直ぐで良かったです。個人的には現在視点の描写があっさりし過ぎているかなと感じるところがあって、淡々とした日常だとしても、というよりそうであるからこそ対比の影ではなく、光っていた過去からの延長線上の今としてもう少し映像が欲しかったりはしたのですが、そんなことは瑣末に思えるくらいには気持ちのよい青春小説だったと思います。
  • 2026年5月5日
    君の不在の夜を歩く
    他者が抱えるものすべてを背負うことなんて出来ないくせに、誰かに自分を背負わせることには無自覚な此岸に暮らす私たちの、喪失を経験してようやく自覚的になるその傲慢さを含んだ鎮魂の祈りが向こう側へ渡った人の内側で赦されることがあるのなら、それは救いだと思いました。
  • 2026年5月2日
    天領の鷹 下
    飛騨から蝦夷へ渡った材木商飛騨屋の四代百余年を描いた大河小説。上下巻合わせて600ページ超ですが各代で違う問題にぶつかり悪戦苦闘するので物語が単調になったり弛んだりすることがなく、史実と創作のその織り合わせの丹念さはまさに労作と呼ぶに相応しいものでした。目先の利益だけを追うことはせず必要な分の木を伐り、同時に山が未来へ続くよう自分たちで苗も植える。そんな杣たちの生き方を写したかのような飛騨屋主人たちの人との関わり方は読んでいてとても気持ちがよく、また胸に迫る場面も何度もありました。
  • 2026年5月1日
    ギアをあげて、風を鳴らして
    身体がゆるやかに大人へと移ろいゆく子どもたちの季節が、大人の為にオトナにならざるを得ない日々になってしまっては絶対にいけないと、そのことを強く思いながら読みました。出来ることにも行ける距離にも限りがある中で、手が届くものへ危なっかしい不器用な全力で突き進めるのは、あの頃の私たちも持っていた未熟さ唯一の特権と言ってよいはずです。大人になれば戻ることも、そこにあった宝物に触れることも出来ず、ただ惜しい気持ちを抱えるしかしようの無い子供時代だからこそ、この瞬間の彼ら彼女らには、今はまだ《「ちゃんと漕ごうって思わんでええねんで」111p》という愛情で包んだ言葉を私たちは手渡してあげるべきなのだと思います。
  • 2026年4月28日
    天領の鷹 上
    感想は下巻読了時にまとめて。
  • 2026年4月23日
    ふつうの家族
    ふつうの家族
    嵐の夜に突如現れた青年をトリガーとして、理想的なふつうの四人家族それぞれの隠していた秘密が明らかになっていくライトなミステリ。家族という纏まりは強い繋がりを持ってはいるけれど、最も近い他者の集合である事実は覆しようもなく、その矛盾の距離感ゆえに事実が秘匿されるというのは、誰もが一度は経験したことのある事柄なのではないでしょうか。輪の中にいる人間でさえ見通すことの出来ない個々が抱えたネガフィルムを踏まえて家族を捉えることなど、第三者には土台無理な話なのだから、羨望、憐憫、義憤その他諸々の感情を一方的によそへ向けるのは意味がないし止めた方が良いよねと、この“大詮索時代”に生きる私は思ったりもするのです。
  • 2026年4月17日
    見えるか保己一
    見えるか保己一
    史実を時系列でなぞる事よりも、普遍的な人間の在りように主眼が置かれているので、佇まいは歴史小説というよりも時代小説の方が近く、塙保己一でなくとも物語が成立し得るのではないかという部分は多少気になりましたが、見えるもの見えないもの、視たいもの視たくないもの、人が目や意識を通して他者との間に作り上げるそれら歪な像の存在を全盲者と晴眼者の隔てなく描いているという点に於いて、本当に誠実な小説だと思いました。
  • 2026年4月11日
    飛上りもん
    飛上りもん
    藩主からの命とはいえ、齢六十を超えてから故郷の紀州を離れて遠路遥々関東へと移り住み治水を行わなければならなくなった井澤弥惣兵衛の人生自体には不憫だなあ(産まれたばかりの実子を預けて向かうので)と個人的に思う部分もありはするのですが、所謂置かれた場所で咲きなさいを地でいくように、その土地々々の人達や配下人足と時にぶつかりながらも普請や新田開発に取り組む実直な彼の人間性は読んでいて気持ちが良かったですし好感が持てました。ただ一方で、そのような人物や治水という大きな事業を小説の中心に据えながら物語が普請そのものより、それを成す前段階の人間関係周りに終始してしまっているので、自然に抗う人間が持つダイナミズムはかなりの部分で失われており、それに伴ってフィクションの推進力があまり出なかったのは、400ページ越えの作品としてはかなり痛かったように感じます。
  • 2026年4月5日
    猿
    私は雷がとても怖いのだけれど、その理由として自分のうちにある音だとか稲光みたいなものも、解体していくと何だか本質的なものから遠ざかるような、というよりそもそも理由になるようなものも無いような気がしてくる。要するに怖いと思うから怖くなってしまい、だから見るのも(私の場合は聞くのも)、反対に見ない(聞かない)のもそれを増幅させる装置となって悪循環になってしまう。この小説で示されてるのはそういうことだと思いました。迫り方に新しさが感じられなかったり、ストーリーの中心にあって会話劇で長く説明される割に、とある村があまり作中で活かされていなかったり個人的には残念な部分が目立ってしまった。
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