満月が欠けている
91件の記録
月日@tsu_ki_hi_2026年2月8日読み終わった@ 自宅絶叫委員会ぶりほむほむかもしれない。緑内障、や目の病気はここのところ意識をすることが多かったのと本屋さんで表紙がきらきらしていて、あと「満月がかけている」ってタイトルが好きです、ほむほむの本はいつも。 誰も他人のことは分からない、という章題だけで、あぁ。ってなる。「生きのびる」ことも必要だけど「生きる」ことをずっと忘れたくないな、って思えた読書だった。わたしの死生観について考えてみたい


- 綾鷹@ayataka2026年2月7日歌人である著者が持病である緑内障とその周辺について語った本。 子供時代から弱かった目の話から、眼科の主治医・精神科医との対談、目に関する詩、死生観についての話が書かれている。 弱みを抱えて生きるということ。 でも、世間一般で考えられている弱みは本当に弱さなのだろうかと考えさせられる。 「涙と同じ成分の目薬は何かに違反してる気がする」という詩と、「統合失調症患者は人類にとっての『生きのびるための保険』だと言えるのではないか」という話が特に好きだった。 ・人は苦しむ以上に恐れる フランスの哲学者のアランの『幸福論』という本の中に「われわれは苦しむ以上に恐れるのである」という言葉があります。子供の頃、その言葉を見つけて、線を引いた記憶があります。 ちなみに、私がとても恐れているのが睡眠不足です。夜中に自宅に帰ってきて、翌朝早くに起きなくてはいけないことになると、今すぐ寝てもほとんど眠れないのではないかと思ってなかなか寝つけないんです。 すると、余計な心配が頭に浮かんできてすごく焦り始めます。ただ、実際に寝不足で大失敗したことなんて人生で記憶にないくらいのことなんですよ。だけど、寝不足を恐れたことは100回や200回じゃ済まないぐらいあります。その労力に全然釣り合っていないんですよね。自分にとっては苦しんだり失敗したりすることよりも、不安で恐れることのほうが心の中に占める割合がすごく大きいみたいです。 実際には、ほとんど寝ていなくても次の日に眠くなった記憶はありません。むしろ、仕事が終わって、たっぷり寝た次の日のほうが眠いことがあるから不思議ですよね。 どうやら、まだ物事が起きていない時にこそ、人間は不安を感じるらしい。 実際に本番になったら、「昨日俺は寝ていないんだ」みたいには思わないですよね。 でも、どうしても克服できない。次の仕事の前日になると、また同じ不安に駆られてしまうんです。 ・ビクビクの個人差 私の中で睡眠不足を恐れることと緑内障を恐れることは似た側面があります。緑内障は自分が病気であることに気づいていない人が多いそうです。現在治療している人はほんの一部で、潜在的には500万人近い人が緑内障の有病者だと言います。 でも、たとえ病気に気づいていなくても、失明などの致命的なことが起きる割合は、おそらくそんなには多くないのではないでしょうか。なぜなら、緑内障は高齢者に多い病気なので、実際に自覚症状が出る前に亡くなる人が多いからです。おそらくそうした人は、自分の目が悪いとはまったく思わずに人生を終えたのではないかと思います。 でも、私は早めに緑内障が見つかったので、すごくビクビクしていろいろと情報を調べました。眼科にも何度も行って目薬も総額でいくらになるのか分からないほど購入しています。時間もお金もメンタルも削られて、最後まで何とか生活に不自由のない視野が保てれば、「良かった」と思うことができるわけですが、緑内障であることに気づかないまま亡くなった人と私の差っていったい何なのだろうと考えると、不思議な感情に襲われます。 でも、気づいてしまった以上、ギリギリセーフとギリギリアウトは大きな違いです。 リアルタイムの患者としては、早く見つかって良かった、というのは確かなことです。 ただ、緑内障の患者さんの中には、病気が見つかっても放置する人も多いと聞きます。だから、誰もが未来のことを恐れるわけじゃないんですよね。 徹夜が平気な人もいれば、仕事に行って居眠りをして失敗をしても、さほど気にしないという人もいます。それどころか、また同じことを繰り返す強いメンタルの人すらいます。物事を恐れる度合いには大きな個人差があるみたいですね。 ・涙と同じ成分の目薬は何かに違反してる気がする シラソ ・消し惜しむ手術前夜の冬灯視力戻るは五分五分なれば 越前春生 ・誰も他人のことは分からない 妻と食堂に入ると、「きっとこれを注文するだろう」と、予想してみるのですが、結構な割合で外れてしまいます。今まで一度も頼んだことのないようなものを急に注文したりして、驚くことがよくあります。長年いっしょにいてご飯を食べている夫婦でも、そういうものなんですね。 また、違った意味で予想できなかったのが、編集者の二階堂奥歯さんのことです。 二階堂さんと本の打ち合わせをしていた時、私がのろのろしていて、なかなか仕事を進めないことに業を煮やした彼女が、「早く書いてくれないと、私死んじゃうかもしれないから間に合いませんよ」って言ったんです。 私はその言葉を完全に冗談だと思っていました。なぜなら、彼女は若くて賢くてセンスがあって、編集者としても非常に優秀な人でした。また、多くの友人に囲まれて恋人もいて家族仲も良かったそうなんです。客観的に見ると、死ぬ理由なんてまったくないように思えたんです。 ところが、ある日、訃報というタイトルのメールが来ていて、文面を見たら、二階堂さんが亡くなったという知らせでした。衝撃でした。「あの言葉は本当だったんだ」と思いました。実際、二階堂さんとつくろうとしていた本は、まだ打ち合わせ段階で完成しませんでした。私は全然、分かっていなかった。 芸能人などの自殺のニュースに驚くことがありますよね。美しくて活躍していて幸せそうで、苦しみの気配なんて見えなかった人が突然亡くなってしまう。 でも、その人からしたら、生きていたくないほど苦しかったんでしょう。それなのに、他人が外から見ても、そのことは分からないという事実に衝撃を覚えます。これってすごく怖いことですよね。 もしそうなら、死のこと以外でも、親しいと思っている人に嫌われている可能性だって、そのほかのなんだって、十分あり得るわけですから。 ・精神科の場合、病気を治すという発想でやっていたらあまり意味がありません。患者さんの考える幸福の着地点をいっしょに見つけるほうが重要だと思います。軽い病人であるほうが幸せなんていう人はいくらでもいるわけです。健康すなわちハッピーとはまったく言えません。 どう生きていきたいのかという患者さんの主観にかかっているんですね。 病気を「やっつける」「退治する」といった単純な考え方では、精神科では通用しないということです。その延長で申すなら、ぜんそくや緑内障などの慢性疾患も完治するという発想を捨てれば、どの辺りで折り合いをつけるのかという話になると思います。その点では精神科と近いところがあるのではないでしょうか。 ・私が診療で重要だと思っているのが、「プロセス」と「罪悪感」です。人生にはなかなか結論や結果が出ないとか、どう頑張っていいのか分からないとか、中途半端であったり曖昧な状態にとにかく耐えなければならないシーンが多い。我武者羅に努力すればどうにかなる、なんてわけにはいかない。だからせめて過去の成功体験にすがって自分を勇気づけたり、本やドラマを通して自身を鼓舞したり、楽天的で前向きな気持ちになろうとあれこれ工夫しつつ機が熟すのを待つしかない。 でも精神を病むと、機が熟すのを待つだけの余裕が失われてしまうんです。「待てば海路の日和あり」と驚場に構えてみるとか、せめて可能な範囲で準備を繋えるとか、ちょっと方向性を変えてみるとかの「ゆとり」がなくなってしまう。 あたかも無駄とか回り道のように見えるプロセスの必要性を患者さんは倍じられなくなる。私が言う「プロセス」とは、そのような無意味に映るけれども実は必要不可分な過程のことですね。 罪悪感について言えば、患者さんの中には親の期待に応えられなかったり、自分自身の理想に近づけなかったりといったある種の後悔を引きずっている人がいます。でも、罪悪感を持っていない人なんていません。むしろエネルギーにすらなり得る。そのことをはっきりと指摘したほうが患者さんの中で気持ちが整理されて楽になる場合もあるんですよね。 ・人間以外の動物はおそらく死ぬのはまったく怖くないのだと思います。種として存在してさえいればいいというようなある種の安心感のようなものを感じます。人間以外の動物にとって死は皮膚細胞の一つがはがれるような感覚なのでしょう。 確かにそう見えますね。動物にとって死は恐れることではないとすると、時間の概念がないとも言えると思います。でも、動物も歳をとります。動物が時間を知らなくても老化を免れないというのは、不思議な感じがしますね。 春日 動物も「最近不便になったな」というような感覚はあるのではないでしょうか。 「もっと高くジャンプできたのに」とか思っているかもしれませんね。でも、人間は「今60歳なのでまだこれぐらいはジャンプできるけど、80歳になったらさぞかし厳しいだろう」とか思ってしまいます。どうしたら、人間は主観的な幸福感を最大限にして死んでいけるのでしょう。 誰もが工夫していますが、いまだ達成できていないテーマだと思います。ただ、最近のベストセラー本を読んでいると、「自分が滅びてもいずれ誰かが達成できればよいと思えるようなライフワークを見つけなさい」とは言っていますね。 いわゆる大義ってことでしょうか。でも、動物は繁殖できればライフワークは達成なのでしょう。ある時代までは人間もそのような感じだったのかも。やがて家族や家という制度ができてくる。 精神科の立場で見ると、家族や家が精神病理に与える影響は大きいものがあります。ちなみに、思想家の内田さんは両親と子一人の核家族は家族ではなく、単なるパワーゲームの場だと言っています。つまり、子供が小さいうちは親の権力が絶大で、子供が成長すれば親に復讐することもあるというわけです。そこで、内田さんは「おじさんか、おばさんがいれば、親の絶対性が揺らいでパワーバランスが整うのだ」と指摘しています。もし、そのような環境がないのだとしたら、就職や結婚などで早いうちに家の外に出ることが生物的に自然なことなのだと思います。精神的に不健康な家族から逃げ損ねた人を診察していると、親といることで、精神病理がますます煮詰まっていく傾向にあるように感じます。 確かに、動物は早いうちにみんな独り立ちしますよね。そうなると、人間にとって家を出るというのはどういった意味があるのでしょうか。 「自分なりの価値観に基づいて生きていく」ということでしょう。自分に正直に、ね。でもそんなことを言いながら私も30歳まで家にいましたけどね。 ・生と死について疑問に思っていることがあります。私たちはふだん、生をノーマル状態、死を一種の非常事態のように捉えていますが、実際は逆なのではないかということです。死の大海の上にかろうじて浮かんでいる木切れのような生のイメージです。むしろ生のほうが例外的な事態なんじゃないか。 そんな我々にとって、死は無根拠に突然襲ってくるものなので、本来は絶えずそれに対して心を向けていなくてはいけないはずです。でも、その事実による衝撃があまりにも大き過ぎるので、とても耐えることができない。ですから、私たちの意識は死をぎりぎりまで直視しないように隠蔽する方向に向かうのだろうと思います。 確かに、医療現場で患者さんが亡くなって家族が泣いているシーンを見ても、泣かなきゃいけないと思って泣いている人が案外多いように感じます。死を特別なものとして扱わなければならないというある種の思い込みがあるのでしょ らね。 詩人の言語感覚に死への感度を見ることがあります。以前、あるイベントに登壇して、最初に一人ずつ「こんにちは」と自己紹介をしている時、詩人の白石かずこさんは第一声で「私が死のうと思った夜、電話が鳴った」と言われました。 思わず息を呑んでしまいましたが、考えてみると、最初は「こんにちは」から入るというのは「しばらくは死なない」と宣言しているようなものかも。言わば、死の隠蔽が手順化したものと言えるのではないでしょうか。 白石さんが「こんにちは」と同じくらいの感覚で「自殺を考えていることをほのめかす」というのは死を日常的なものとして見ているということですよね。 精神科医をしていると、度々自殺をする患者さんに遭遇することがあります。 自殺は個別的に見ると痛ましい出来事ですが、仮に私が神様で人間をつくるとしたら、自省を促す契機を与えるといった意味合いで、一定の割合で自殺をするプログラムを組み込むと思います。自殺によって「人間の心はなんて不可解なんだろう」と、時にはショックを与えることも必要なのではないかと思っています。そうやって人間の感情を揺さぶることによって、不可解な出来事を探求したり繊細な感情を表現したりする哲学や思想や芸術が生まれたのでしょう。 マクロな視点で見れば意味があるということですね。 詩人の感受性と世間でときおり生じる不可解な自殺とは、どこかで通底しているのかもしれません。 ところで、統合失調症患者は孤独と痛みに対してとても強いと言われています。 彼らはどこか浮世離れしていたり、そつなさを求められる通常のコミュニケーションではハンディがありますが、ジャングルの中で水源を発見するような場面ではある種の鋭敏さを発揮します。 現代の基準では非日常的な場面でこそ力を発揮するということですね。 ちなみに、「統合失調症患者はどの国、どの人種にもほぼ1%弱いる」と言われています。神様が非常時に救世主となる存在をプログラムしていると考えるならば、統合失調症患者は人類にとっての「生きのびるための保険」だと言えるのではないでしょうか。 途方もない天変地異が起きても誰かが生き残るためには、現代社会では力を発揮できないような人が一定数いなければいけない。言わば多様性ですよね。そういったマクロな視点で見ると、病気にも潜在的な意味があるのではないでしょうか。 ・本当に大切なもの 私は子どもがカブトムシやプラモデルを大切に思う気持ちと大人が健康やお金を大切に思う気持ちには、大きな隔たりがあると思っています。子どもは健康を損ねたり、お金を自分で使ったり管理したりする経験が乏しいので、これらを強く意識することはありません。つまり、子どもがカブトムシやプラモデルを大事に思う気持ちの中には純粋な関心や興味しかないんです。一方、大人が健康やお金が大事という時には、言葉の詐術による価値のすり替えのようなものが働いているのではないかと思っています。 私も歳を重ねるにつれて、健康を維持するために病院に行く機会が増えています。 内科だけでも二つとか行くようになると、お金も時間もかかります。歳をとると通勤するように病院に行く感覚がだんだんと分かるようになってきました。でも、本当は病院に行きたい人なんていないと思います。それよりも旅行に行ったり趣味に時間を使ったりしたいはずですが、病院のほうが強制力が強いんですよね。会社にも病院と似たところがあって、こちらはお金のためですね。もしかしたら、病院や会社に行きたい人もいるかもしれないですが、健康やお金のためだと思うと強制力は強くならざるを得ません。 でも、私は本当の意味ではお金や健康など大切ではないと思っています。それらはただ、なくてはとても困るものというだけなんです。お金はただの紙切れと金属だから、大切なわけがないのですが、なくては困るんです。健康だって自分自身を人質に取られているようなものです。 一方、カブトムシやプラモデルはなくても絶対的に困ることはない。ただ、純粋に好きだから大切というだけです。なくては困るものを大切と言うのであれば、健康やお金はもちろん何よりも大切ですが、私にはその二つは本当は別のことのように思われます。 ・「生きる」と「生きのびる」 表現をする際に意識していることは他にもあって、例えば「生きのびる」と「生きる」という概念です。生きのびるというのは、前述のように健康やお金について、「なくては困る」がイコール「大切」と意識がずらされている状態を言います。つまり、生きのびなければ、生きることができないということです。ちなみに、生きのびるということの目的は全員が共有しています。当然目指すべきベクトルもいっしょになっていきます。 病院や会社を最高の場所と思っていなくても、生きのびるためにどうしても行かなくてはならないことがあります。我々は生きのびるという土台の上で、初めて生きることができるからです。 一方、生きるのほうは、先ほど述べたように詰将棋や乗り物の空気抵抗の考察など、人によってやりたいことの方向性が異なります。例えば、住宅地の道で私がずっとしゃがんでいるとしましょう。すると、不審者だと思われてお巡りさんがやってきます。 この時お巡りさんに「コンタクトレンズを探しています」と言えば、全員が共有している生きのびるの概念に該当して、社会的にOKになります。コンタクトレンズを探すのは「なくては困る」からですよね。 しかし、「このアリの列がどこまで続いているのかなと思って」と言うとNGになります。この「なぜアリの列が見たいのか?」と聞かれても答えることができない状態こそが生きるに相当します。その人にとって、なぜそれが大切なのかは説明が難しいけれども、人間の最終的な目標は生きるのほうのはずです。多くの人が死ぬ時に後悔するのは生きのびることに資源を割き過ぎたということなんですね。「もっと純粋に生きることに熱中すれば良かった」と思う。でも、死ぬまでの時間を何十年も引き延ばされてしまうと、生きのびることの強制力のほうがどうしても強くなってしまうんです。 無頼派の詩人やロックスター、冒険家、犯罪者といった非社会的な適性がある一部の人以外は、なかなか生きのびることへの強制力に抗えません。また、多くの場合、生きのびることに抗ったロックスターや冒険家や犯罪者は早く死にがちです。そうしたこともあって、我々はこうした人々のことを心のどこかで羨ましく思いつつ、決して真似しようとは思いません。 ・みんな方舟の上に乗っている 社会は生きのびるという全員の共通目的の上で、個人に対して最大公約数的な生存への優位性を求めます。ただ、それも時代や国が変われば、まったく変わってしまうんです。例えば、「みだらな行為」という言葉がありますよね。つまり、これは性的な行為のことを指すわけですが、この言葉が使われるのは報道の場面など特定の状況だけです。本来は種の保存にとってなくてはならない行為が局面によって善にも悪に もなる。 昔の日本ではいわゆる婚前交渉は禁忌で「一線を越える」などと表現していましたが、時代を経るにつれて「できちゃった婚」「授かり婚」といったようにネーミングが変わっていきました。いつの間にか良いものであるかのように意味さえも変わってしまっているんです。現象自体は同じことを指しているのに、ネーミングが変わっているのは社会のニーズが変化したからだと言えるでしょう。 そうした観点で今の社会を見ていると、自分が若かった頃に関心を持ち、みんなが資源を投入して、コミットした問題は、もはや現在の重要事項ではなくなっているという感覚があります。でも、それが果たして解決したのかと言うと、必ずしもそうではないと思います。私はこうした時代の変化の本質をマイノリティ性の問題として捉えています。 若い世代の人たちは、当事者性やマイノリティ性の問題に非常に敏感です。さまざまな領域の若い人たちと話すと、彼ら、彼女らの多くは弱さをキーにした表現の展開に関心を持っています。 私も以前からマイノリティ性や弱さを表現のテーマの一つにしてきましたが、それは自分の資質的なものが大きかったんです。「暗いダメ人間が魔法の杖を手に入れて世界をひっくり返す」というようなイメージを持っていました。単に今までマイナスだったから、プラスになる魔法の杖はないかなと探すような感じですね。これは弱さが強さに反転するという夢を求めているだけなんですよ。 でも、若い世代の人たちはもっと倫理的なことを考えているみたいです。その根本では、他者とどう向き合っていくのかということが問われていると思っています。人間の数だけ無限の立場と考え方があり得るわけなんです。でも、かつての私が表現の中で想定していたのは他者がいない世界なんです。 私の若い頃には世界が滅びるとか日本がダメになるとか、そういう感覚はありませんでした。当時は、世界はとても広く、ポテンシャルがまだまだあると思っていました。そうした条件下においては、他人と傷つけあっても互いに別の場所で生きていけばいいだけで、無数の選択肢があると考えることができました。 でも、時代の流れの中で近年感じるのは、全員が方舟に乗って危うい運命を共有しているような感覚です。そんな状況だと、方舟の上で喧嘩するとか焚き火をしちゃうとかいったことは、非常にリスクが高くなってしまいます。加害性について全員が敏感になる必要がある。かつてのようにそこにポテンシャルがあれば互いに傷つけあってもいいだろう、といった考え方は今は成立困難に思えます。

🌷@hana_no_namae2026年2月7日読み終わったはあ…。穂村さんの文章と考え方が大好き…。満足。 ご自身が患っておられる緑内障をテーマにした一冊なんだけど、奥さまの話も出てきて、私は穂村さんが奥さまについて語るのが大好きだからうれしかった。 「生と死について疑問に思っていることがあります。私たちはふだん、生をノーマル状態、死を一種の非常事態のように捉えていますが、実際は逆なのではないかということです。死の大海の上にかろうじて浮かんでいる木切れのような生のイメージです。むしろ生のほうが例外的な事態なんじゃないか。」 生と死について、これほどまでに詩的で腑に落ちる説明がある?はあ、好き。 精神科医の春日武彦さんとの対談で出てきた「統合失調症」について。 「統合失調症患者はどの国、どの人種にもほぼ1%弱いる」。それは神様が人類に組み込んだ「非常時の救世主」であり、生存のための保険(多様性)なのではないか、という考え方。そんな風に病気についてマクロな見方をしたことがなかったから面白かった。 子供の頃にはカブトムシやプラモデルなど多様だった人間の関心が、大人になると「健康・お金・愛情」という3つの願望に固定化されてしまう、って文章はドキッとするよね。 「子どもがカブトムシやプラモデルを大事に思う気持ちの中には純粋な関心や興味しかないんです。一方、大人が健康やお金が大事という時には、言葉の詐術による価値のすり替えのようなものが働いているのではないか」 自分だけの純粋な「好き」を見失いたくない、と思いつつ、もう自分のカブトムシがなんだったのか思い出せない。
シロップ@sirop2026年2月5日読み終わった借りてきたわたしも目を患っているので興味があって読んだ。あたりまえかもしれないけど、知っていること、共感できることが多い。わたしも穂村氏と同じく、まぁまぁ恐れるタイプなので、あぁわたしと同じようなことをする(思う)人もやはりいるんだ、と思った。 病気への向き合い方というか、感じ方は人によって違うので、どう受容するかにもいろいろあるんだろうけど、いろいろあると知ることで楽になる部分もあるなぁ。


- kara12254@karakara2026年1月21日読み終わった主治医の眼科医の先生と旧友である春日氏との対談は良かったと思います。慢性疾患とは完治を目指すのではなく、患者さんの幸福の着地点を探すという付き合い方が必要と。 着地点は生きる希望であって死生観にもつながるかなと。
noko@nokonoko2026年1月6日買った読み終わった緑内障になって、死生観のことなど何書いてある。 緑内障になって、人生振り返っちゃうのを笑う人もいると思うけど、なんとなくわかるなー。 目にアツをかけないようにしよう。

なかやま@asheepinthewell2025年11月13日読み終わった借りてきたほむほむが自分の緑内障について書いたものを読んだりインタビュー記事を目にするようになったのは、それほど前でもない気がしましたが、もう20年治療をしていたとは。緑内障のこと、病気や医者との付き合い方、死について。





- msm@msm2025年8月28日読み終わった「私たちはふだん、生をノーマル状態、死を一種の非常事態のように捉えていますが、実際は逆なのではないかということです。死の大海の上にかろうじて浮かんでいる木切れのような生のイメージです。むしろ生のほうが例外的な事態なんじゃないか。」

ゾウのパオパオ@paopao2025年7月27日読み終わった語り口が淡々としてて読みやすかった 緑内障について本人の口から、対談から、短歌から知ることができた 「生きる」と「生きのびる」の話がなるほどな〜と思った あと表紙の紙がラメ入ってキラキラしてて嬉しい


読書猫@bookcat2025年7月26日読み終わった(本文抜粋) "緑内障で失明するかもしれないと思ったら、恐怖のランキングが入れ替わったんですよね。「目が見えるうちにもっと書こう」という気持ちになって、文筆業一本で生活することを決めました。" "春日武彦 ……精神を病むと、機が熟すのを待つだけの余裕が失われてしまうんです。「待てば海路の日和あり」と鷹揚に構えてみるとか、せめて可能な範囲で準備を整えるとか、ちょっと方向性を変えてみるとかの「ゆとり」がなくなってしまう。あたかも無駄とか回り道のように見えるプロセスの必要性を患者さんは信じられなくなる。" "私たちはふだん、生をノーマル状態、死を一種の非常事態のように捉えていますが、実際は逆なのではないかということです。死の大海の上にかろうじて浮かんでいる木切れのような生のイメージです。むしろ生のほうが例外的な事態なんじゃないか。" "私が表現をする際に、大事にしている概念が「ワンダー」と「シンパシー」です。ワンダーとは「驚異」。「こんなの初めて!」みたいなことを指します。 一方、シンパシーは「共感」を意味します。「それ、分かる!」って感覚ですね。これらのうちどちらに引き寄せられるかには個人差があり、時代状況も影響を与えます。また、その人の年齢によっても変わってきます。" "多くの人が死ぬ時に後悔するのは生きのびることに資源を割き過ぎたということなんですね。「もっと純粋に生きることに熱中すれば良かった」と思う。でも、死ぬまでの時間を何十年も引き延ばされてしまうと、生きのびることの強制力のほうがどうしても強くなってしまうんです。".

































































































