

チョム
@abb_20260521
さいきんは新潮文庫
- 2026年10月4日
読み終わった再読したダ・ヴィンチで単行本が紹介されていたときに気になって、その後文庫化したのを見つけて手に取って読んだ。それからなんとなく思い出すたびに再読を重ねてきて、物語構造がうまいなあと、読むたびに思う。 飛び降り自殺した朱音をきっかけに全校生徒へアンケート回答が義務付けられたところから始まる本書の語り手は、同じ学校の生徒というだけで朱音と直接の接点のない「他人」、同じ教室で過ごしていたけれど同じ友達グループではなくちょっと会話したことのあるだけの「クラスメイト」、朱音がやたらと接点を持とうとしてくるのでウザいと感じていた「(朱音のことが)嫌いなクラスメイト」、朱音の友人と仲良くしている「友人の友人」、朱音から告白されて付き合っていた「恋人」、朱音と幼い頃から仲良くしていた「大切な幼馴染」と、赤の他人からだんだん朱音と近しい者へ移り変わる。 読者がそれらの語りを追うにつれ、朱音という一人の人間の見え方も変わってくる。 そして満を持して朱音本人が語り手となった章で、朱音がなぜ空を飛んだのか、その全貌がやっと見える。 朱音の幼馴染の純佳、そして朱音自身が語り手の章によってキリキリと疲弊した心の重さは、たった4ページのエピローグの最後の最後で明らかになった、朱音が空を飛んだ直後の出来事にスッと軽くなってしまった。 わたしは純佳の心の枷を外してあげようとした莉苑に大きな好感を持った。莉苑は祖母の言葉を自身の信念というか信条というかそういうものとして大事にしており、「大切な幼馴染」を喪った純佳に対する言動をとてもありがたいと思った。たとえそれが朱音の想いを蔑ろにするものであったとしても、朱音はもういないのだから。今後も生きていかなければならない純佳が、莉苑の言葉ですこしでも救われるのであれば。そう、それはまさに、第六章の裏テーマであった。 - 2026年10月4日
青空の卵坂木司読み終わった坂木と鳥井に限らず、登場人物たちの人間関係が根幹となる本書であるが、「冬の贈りもの」で他人の呼び方に拘る様子を見せた鳥井が「春の子供」で実の父親への呼びかけに迷う姿を見せた際の、坂木のモノローグが印象的だったので、以下に挙げる。 「名前は不思議だ。僕も試しに両親の名前を頭の中で呼んでみた。するとどうだろう、父は一人の男として、母は一人の女として、生々しいほどに存在感が出てきたのだ。どうか、一度は試してみてほしい。名前を呼ぶと、自分の両親が一人の人間であるということが、よくわかるのだ。」(p316-317) わたしの中で母親は「お母さん」で父親は「パパ」だが、彼らの名前を脳内で呼んでみたら、この坂木と同じ気持ちになった。彼らには彼らが主人公の人生があり、わたしという娘を含む他人と関わりを持ちながらその物語を紡いでいる、一人の人間である。きっとお母さんの中でわたしは娘であると同時に一人の女性であるし、わたしのパパのことも自分の夫であり一人の男性であるのだろう。 そうして一個体である人間がたくさん集まって関わりを持ちながら生きているのが人間社会というもので、他人と関わることで初めて自分という人生の物語を紡ぐことができるのだ。 なんか、そういうことを考えさせられるような本だった。 - 2026年9月30日
青空の卵坂木司かつて読んだ読んでる身内を病院に連れていくため帰省した際にかつての自室に置きっぱになっていた本書を暇つぶし用に持っていった 若い男たちの共依存関係と日常のちょっとした謎解きのバランスが味わい深い - 2026年9月27日
パプリカ筒井康隆読み終わったかつて読んだときのような混乱はなかったんだけど、やはり難解なことを話していて(時田先生が……)あんまり理解できずフィーリングで「そんなもんか〜」と思いながら、人間同士のアレやコレを楽しむ方向に舵を全振りしたのでそこそこ楽しく読了。うっすら記憶している映画版のラスボス戦と原作のラスボス戦が異なるかも。 とにかく千葉先生がす〜ごいハーレムというか、「男」と「女」の関係性のねっちょり加減がすごいなと、ちょっと語彙がない 千葉先生ハーレムがスゴければスゴいほど、ラスボスとその一番弟子(?)の男性同士のねっちょりさを噛み締めるといい味わいになっている ほんとうに語彙がない 柿本信枝ちゃんがどうなったのかだけ教えて - 2026年9月24日
- 2026年9月22日
地雷グリコ青崎有吾読み終わった「射守矢真兎は勝負ごとに強い。」(p14) 中学の体育祭の学級対抗全員リレーで、全国大会に出るほど強い陸上部のメンバーが一人もいない彼女らのクラスはビリ間違いなしと目されていたのに、「なるべく恥かきたくない」と悩みながらリレーの走順を決める鉱田ちゃんに「こっちのほうが恥かかないと思う」と真兎が手を加えたことで、当日の全員リレーで一位になった。なぜ? どんな手を使った?──このエピソードは鉱田ちゃんの回想として見開き2ページでさらりと紹介されている。知ってしまえば単純で明快な手なのに、きっと他のだれも思いつかないような方法だ。(だからこそ一位を獲れたのだ。) 表題にもなっている「地雷グリコ」はジャンケンの勝者が出した手に応じて字数分だけ階段を昇る遊びの延長戦で、相手の仕掛けた地雷の段を踏んだらペナルティで降りないといけないという、単純明快なルールのゲーム。でも真兎と対戦相手の椚先輩はこちらが思いつきもしなかったレベルの頭脳戦を繰り広げる。 基本的に真兎の友人・鉱田ちゃんの視点で物語が描かれるため、我々読者は鉱田ちゃんと同じレベルの頭脳でゲームについて考え、気づき、展開されるゲームの模様を見届けることになる。第2章以降は真兎や対戦相手の視点で描かれる場面も増え、その思考も読める。読めるのに、真兎の手の内はその時が訪れるまで明かされないような書かれ方をしているので、我々は対戦相手や鉱田ちゃんと同じタイミングで驚き、感心することになる。 文庫版解説でも触れられているが、本作で真兎がゲームをする目的のすべてに青春的要素が絡んでくる。文化祭での出店場所を巡り、カフェの出禁の解除を巡り、……最終章で果たされる目的には、学生時代を経験した者の多くがグッと胸を熱くするに違いない。 私も真兎のような友人が欲しかった。 - 2026年9月19日
本が読めない34歳がはじめてごんぎつねを読む ごんぎつね・変な絵・鼻・葉桜と魔笛かまど,みくのしん読み終わった買った新作出てたの知らんかった!!と書店で飛び上がってすぐ手に取ってしまった もしかして毎年出してくださる? 『ごんぎつね』だけ名指しなのなんでだろ~と思ったんですけど、誰しもが記憶に残す教科書の名作である『ごんぎつね』を知らない(覚えていない)、本が読めない男の初めての『ごんぎつね』に立ち会う、という超貴重な体験ができる一冊となっていました。 おもろポイントの一部を抜粋。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ みく「害獣じゃねえか」 かま「なんてむき出しの言い方だ」(p17) かま「ごんぎつねを農家目線で読む人いるんだね」(p18) かま(本を読みながら深呼吸してる……?)(p20) みく「本当は、『ファンタジーレベル4:★★★★☆』みたいな目安がほしいんだけどな」(p25) かま「読書より漁獲高に夢中になってない?」(p26) みく「(中略)ここで急にBGMがとまった感じがするんだよな〜」(p38) かま「みくのしんって、カメラワークまで想像しながら読書してんの???」(p40) みく「途中で監督変わった?」 かま「小説の途中で監督交代しねえよ」(p43) みく「謝れない人、増えてます!!」 かま「急にACジャパンのCMみたいなこと言うなよ」(p48) かま「お前のイメージする兵十は、漆黒の意思を持ちすぎてない?」(p57) かま「みくのしんって照明効果まで意識しながら本読んでんの???」(p62) かま「お前もう加助禁止な」(p68) かま「『ごんぎつね』を読んで、加助のこと覚えてるヤツいねえんだよ」(p73) みく「兵十目線になったら見える世界が全然違う……!」(p79) かま「人間ってたった3文字でここまで大騒ぎできるんだ」(p82) ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ みくのしんさん、ほんとに我々が経験済みの『ごんぎつね』を読んでる? この引用が『ごんぎつね』のどこを読んでそうなったのか気になったら絶対本書を読んでください、おもろい。 本書では『変な絵』(雨穴)、『鼻』(芥川龍之介)、『葉桜と魔笛』(太宰治)も読んでいるんですが、現代人の「疲れ」についてとか、「悪口」の答え合わせをしたりとか、ただ物語展開を楽しむだけではないいろんな要素について触れられており、みくのしんさんの読書が「自分自身の人生との照らし合わせ」でもあることがわかる。 みくのしんさんの読書体験を通して、彼の人となりにも、さらにその人間性の深いところにも触れさせていただく、そんな体験になりました。 みくのしんさんのあとがきより。 「たった1文字すれ違うだけで、嫌な言葉にも温かな言葉にもなりうる緊張感。思っていないことも、書いてしまえばその人の言葉になるし、それが、誰かの心をたしかに動かして、運命すらも変えてしまうかもしれない。そう考えたら、ものすごい取り扱い危険物(後略)」(p488) これ、本だけじゃなくて、昨今のSNSにもすごく当てはまるなって。ふとなにげなく投稿した一文が、他人の人生を変えてしまう引き金になるかもしれない。それは良い方向にも悪い方向にも。SNSが手放せなくなっている、インターネット上の発言がその人の顔になっている今、発信する言葉の一つひとつに本当はもっと気を遣うべきで、それが本音であろうと嘘であろうと、それを見ただれかに与える影響を少しずつ気にしていかないといけないのかもしれない。 もちろん、みくのしんさんのあとがきにそんな意図はなかったと思いますけど、毎日SNSを開いている私は自分への戒めと受け取った、そんな文章でした。 あと、かまどさんのあとがきが今回も胸に染みる……もしかしたらきっと同じような感覚ではないかもしれませんが、あたたかなものは感じています。届いていますよ。今回もすてきな体験をありがとうございました。 - 2026年9月19日
BUTTER柚木麻子読み終わった再読した実際の事件を下敷きにしつつもオリジナルな物語に仕立てあげられている。主人公記者が被告にのめり込んでいく様子やその後の変化が緻密に設定されており、主人公と親友の信頼や情の深さ、ひいては人間同士の繋がりを多角的に照らし描いた物語だと感じた。 食にあまり関心のなかった主人公・里佳が、刑務所でのカジマナ被告との面会を通して「ほんものの味」を知っていき、よく食べるようになっていく変化については、某ダイエットサプリCMの「いっぱい食べるきみがすき♪」が脳内再生されるほど好印象であったが、それを教示しているのが刑務所の中の人間であるというところがなんとも言葉に詰まる。この不摂生女(里佳)がもりもり食べるようになったことは感謝する、だが貴女の罪はこのことでは相殺されないぞ、という感じである。でも貴女の罪って結局なんだったんだろう。亡くなった男三人が直前に会っていたという共通項があるだけの女なのでは? 食によろこびを見出していただけの女なのではなかったか? こうしてただのいち読者である私もカジマナの魔法に絆されていったのであるが、里佳がカジマナの人生を追体験し彼女の内面をえぐり出していくにつれ、この女はただただ哀れな女なのだな……などと見方がじわじわと変わっていく。 ꒦꒷꒦꒷꒦꒷꒦🧈𝑩𝑼𝑻𝑻𝑬𝑹🧈꒦꒷꒦꒷꒷꒦꒷꒦ 【覚書】 梶井真奈子は己のルックスが世の女性たちよりは劣っている(男性の興味を惹かないであろうという意)ことをガン無視して「自分が一人前の女であることにOKを出していた」(p30)。そしてそれは決しておかしなことではない。里佳だって、「どんな女だって自分を許していいし、大切にされることを要求して構わないはずなのに、たったそれだけのことが、本当に難しい世の中だ」(p30)と考えている。 駅のトイレの洗面台で横に並んだ若い女性が、口紅を付け鏡に笑いかけたのを見て、「なんとなく優しい気持ちになって、彼女の後ろ姿を見送った」(p58)里佳は、その後彼女の風貌を思い出そうとして思い出せないことについて、「風貌ではなく彼女を取り巻く、自分をきちんと慈しんでいる安定した空気、そういったものに視線が吸い寄せられた」(p60)と振り返っている。自分を大事にしている女は周囲の空気すら穏やかにする。 - 2026年9月19日
- 2026年9月13日
巨匠とマルガリータミハイル・ブルガーコフ,石井信介読み終わった再読した同著者の『犬の心臓』を読んだことがあり、社会風刺と荒唐無稽、不条理、なんかそんな感じの作風でなかなかドタバタした物語の人という印象があった。歴史や社会経済等に疎く風刺的な面は理解できずとも物語として楽しめたという記憶。 装丁イラストがかわいらしいネコちゃん、なかなかのページ数、タイトルの二人はどんな人物でどんな関係なのか、その他もろもろに惹かれ購入。 第一章の題が「見知らぬ人とは話をするな」などという、なんとも……なんというか古典文学にはあまりなさそうな(古典文学に精通しているわけではないが)題で、しかもその「見知らぬ人」が突然語り出したキリストの話?がひとつの章として差し込まれ、現在の時間軸に戻ってきたと思ったらかなりサスペンスじみた展開になり、凄惨な事件に目を覆いたくなって(脳内で想像しながら読んでいるので目を覆っても文字が追えなくなるだけだが)、ここまでに魅力的な登場人物が出てくるわけでもなく、なかなかどうして今後読み進めていくのにげっそりしてしまうような内容。 それでも「巨匠」と「マルガリータ」に会いたい一心で必死に物語展開を追っていくも、きっと表紙のネコちゃんのモデルなのに全然かわいくなくて丁寧な言葉遣いで支離滅裂なことしか言わない太っちょのベゲモトやいちいち鼻につく態度のコロビエフ、最初からやべ〜やつすぎたウォーランドが起こす問題にいちいちイライラしたり、彼らに振り回される市民をかわいそうだな〜と外野から眺めたりして、だいぶ体力を削られながら半分を読み終えたころにやっとマルガリータが出てきてくれた。「主人公登場」の章で巨匠が初めて登場するが、本作の主人公は絶対にマルガリータだと思っている。 前半で悪魔たちにずっとイライラしていたが、マルガリータが悪魔たちと不思議な夜を過ごしているあいだは不思議と彼らのことを物語のレギュラーキャラクターのようないわゆる主人公側の人物たちのように感じ、なかなか憎めなくなるのであった。とくにゲーラに関してはだいぶいい女だった。 印象深かったのは、演芸場に甚大な被害を及ぼした悪魔側であるアザゼロが演芸場の総務部長ワレヌーハを居留守を使うサボり魔から「《父親のような恩人》」と呼ばれるまでの善人に変えてしまったこと。 「電話が鳴ると、ワレヌーハはすぐに受話器を取り、『もしもし、だれに用事ですか? ワレヌーハですか? 彼はいませんよ。外出中です』といった具合に居留守を使っていた。」(p197) 「電話をおもちゃにするな。電話でウソをつくな。分かったか? もうやらないな?」(p548) 「彼は劇場の管理者の間ですら信じられないほどの思いやりと礼儀正しさを発揮するようになり、だれからも慕われ、愛される人間に変わった。(中略)いつだれがバラエティ演芸場に電話しても、必ず『ご要件を承ります』というソフトな、だがさびしげな声が受話器から返ってくるのを聞くことができた。」(p724) 悪魔たちに関わって無事に生存したうえ元の地位を失わなかった唯一といっていい人物であるうえ、悪魔の手下に改心させられたというのがなかなかおもろい。 巻末の翻訳メモには本作の楽しみ方のヒントがいろいろ書き連ねられているが、作品の魅力を十分に味わうための理解力と知識を補うにはわたし自身の頭が弱すぎたゆえ、二回目をもってしてもきちんと味わえていない感じがある。 翻訳メモ内の「名言または気の利いたせりふ」(p750-752)はかなりおもしろかった。 - 2026年9月11日
黒猫館の殺人綾辻行人読み終わった再読した風呂で水筒のキン冷えアイスティーを飲みながら2時間くらいで読了。 推理小説を読むのは好きだけれど推理をするのは得意ではなく、物語を映像のように追っかけるのが精一杯で伏線やトリックに全然気がつけないタイプの読者なので、江南くんが手記の中の記述と現地の様子の違和感に気づけないのも、ちまちま仕掛けをつくるような細々としたトリックや時刻表を使ったアリバイ作りなどについて「まあどうにかしたんだろうな、という気分になってしまい、種明しをされても『ふーん』としか思えないのである。」(p209)とか思っているのも、まあ共感でしかなかった。 とはいえ今回は2回目で、初読の記憶がなんとなく残ってはいたので、例の建物のことについてはいろいろと伏線を拾いながら読めた。事件のほうは全然忘れていたな~……推理もできず。推理小説は忘れた頃に読み返せばちゃんともっかい楽しめるという、そりゃそうだの結論に辿り着いたので、また一年後くらいに読もうかね(読めば読むほど反復効果で忘れづらくなっていく気もする) - 2026年9月6日
読み終わったカード止められ中古本8 家人不在の留守番のお供に。お風呂にアイスティーを持ち込んで半身浴しながら半分くらいまで読んで、残りはのんびりごろごろしながら読了。表紙の返しに「気楽にこの謎解き小説を楽しんでいただければ」などと著者のお言葉の記載があったが、謎解き小説の謎解き部分が全然手に負えなかった。ただ文章を目で追って、脳内に映像を思い描いて……わたしには鹿谷氏のように推理することはできず、ただのいち読者として物語の展開を追うしか為す術がなかった。犯人の手がかりを示す伏線についても気づかず、ただ漫然と成り行きを見守るだけだったのである。推理を披露する鹿谷氏がときどき「もうお分かりですね」みたいなことをおっしゃるたびに、えっ……なにが……?ここまでの説明でなにが分かると……??となってしまったので、ほんとうにわたしには推理小説を推理しながら読む才能がない。 あと建築の仕掛けについてはほんとうにヒントほぼゼロなので卑怯だ……と歯軋りしたりするものの、そもそもそこまで推理が追いつけない読者なので意味ない。 最後のほうで明かされる招待客の共通点についてもかなりノーヒントすぎるので(実際のトリックとはあまり関連がないとはいえ)まじ~~!? 盛りすぎじゃね?? とエセギャルになってしまい、やはり最後にビッグサプライズがある(そしてきっと読み返すとところどころに伏線がある)のが本シリーズの魅力なのだろうなと思ったりした。 とりあえず本作についてはいろいろなことを忘れないうちに二度読み必至だなという結論。 - 2026年9月5日
冷めない紅茶小川洋子気になる - 2026年9月5日
本が読めない33歳が国語の教科書を読むかまど,みくのしん読み終わった再読したわたしは物語を含めいろんな本を読んできているけれど、読めない本のジャンルというものはあるし、そういうものを読みたいと思わないので手に取らない。もっぱら小説が好きで、架空の物語ばかり読んでいる。 小学生の「国語」という科目で教科書のなかの「文章の塊」に触れ、それを楽しめるかどうかが、物語を、ひいては読書を好きになるかどうかの分かれ目だと思っている。わたしは国語の教科書に掲載されているいくつかの物語にはまり、教科書を飛び出して図書室に置いてあるさまざまな物語の単行本を読み漁り、大人になった今でも書店で本を手に取る。 だから、本が読めないみくのしんさんの感覚がわたしにはわからなかった。 けれど本書は、本が読めないみくのしんさんの読書の様子をかまどさんと共に見守ることができる。本が読めない人が、読書の途中でどんな壁にぶつかり、なぜ「読めない」と感じてしまうのかがわかる。 本書の主役であるみくのしんさんは本が読めないけれど、彼が読んでいてわからない文にぶつかり立ち止まったとき、隣にいるかまどさんがフォローを入れてくれる。解釈を教えてあげるわけではなく、感性に素直な読み方を、それでいいと肯定しながら見守っている。みくのしんさんの読書に対する恐れを、かまどさんが即座に取っ払ってくれるのだ。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ みく「腹の中で『こいつ、分かってねえな〜』とか思ってない?」 かま「そんなこと絶ッッッ対に思わない。つまんないこと気にしてないで自分らしく読んでくれ。」 (p23) みく「こんなことばっかやってたら、周りの優等生にバカにされるだろ。」 かま「その人たちには、こんなに楽しい時間を作ることはできないから。これはこれでいいんだよ。」 (p47) みく「読めない漢字があるのに、いい調子なはずがないだろ。」 かま「いいや、絶好調だね。漢字は覚えれば誰でも読めるけど、ランプのフタを閉じる音は誰にでも聞こえるわけじゃないんだから。」 (p80-81) みく「自分が成長してることに泣きそうになってる……。恥ずかしい……。」 かま「恥ずかしいことないだろ。一番羨ましい涙だぞ。」 (p158) みく「本当に? ここで俺だけ『いい雰囲気だ〜』とか言ってんのバカみたいじゃない?」 かま「一人くらいそういうやつがいたっていいだろ。」 (p199) ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ だからみくのしんさんは、自分のペースでゆっくりと、本を読むことができている。 本書の魅力は、本を読めないなりに一文一文ゆっくり追っていく様子をこうして隣で見守ってもらいながら、その感性ゆえにとんでもなく豊かな「本の読み方」を披露していくみくのしんさんの、その読書の様子にある。 みくのしんさんの読み方に対するかまどさんの反応の一部は次のとおり。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 「俺は、こんなに口いっぱいに頬張るような情景の味わい方したことないよ。」 (p27) 「息を呑みながら本が読めるなんて、最高の読書体験だな。」(p36) 「実況中継みたいな読書だな。」(p37) 「『やまなし』ってこんなに賑やかに読める本だっけ?」(p38) 「みくのしんって映画を観るように本を読んでるんだろうな。」(p39) 「この4文字で梨の甘さまでイメージするのか。瑞々しい読書だなあ。」(p57) 「みくのしんって景色を眺めるように本を読んでるんだ。」(p69) 「みくのしんって、本当にその場にいるように本を読むよな。」(p78) 「とうとう鼻まで使って本を読み始めたのか。とことん体験型の読書だな。」(p89) 「なんて大騒ぎの読書だ。」(p110) 「そのシーンとオーバーラップして見えるんだ。ドラマチックな読み方だなぁ。」(p122) 「マンガの主人公みたいなこと言ってるな。なんてアツい読書だ。」(p213) ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ これだけでもう、本を読むことを楽しんでいるみくのしんさんの様子が伝わってくる。 そして、読書が習慣づけられていない人が、「読書をすること」を言葉で表現しようとしたとき、読書が習慣づけられている(文章慣れしている)人にはわからない感覚が表れる。 みくのしんさんが『山月記』を読んでいるとき、難しくてすこし長めの一文を句点まで読むことを、冒険ドキュメント番組によくある洞窟の中で水に潜り奥へ進むシーンに喩えているところがある。長い文章に慣れている人間には、そのような感覚を覚える機会はきっとないと思う。なので、読書ができるかまどさんも「多分大事なことを伝えようとしてる気がする。」(p151)と、落ち着いた説明を求めたのだ。 先に挙げたかまどさんの反応の一部は、みくのしんさんが読書中にかまどさんの思いがけない反応を見せたり感想を口にしたりしたときに表れる。そしてそれらは、ふだんから読書をしているわたしのような人間ではさらりと読み流してしまって到底そんな反応はしないな……と思うような、感性豊かなみくのしんさんの瑞々しい読書体験である。 本書の初版特典として、『かまど・みくのしんの立場逆転読書』という小冊子が付いており、かまどさんの読書をみくのしんさんが見守るという、本書の中身とは逆の読書体験を行っている。かまどさんはみくのしんさんのように、一文一文を追いかけてそのつど思ったことを口にしながらの読書ではなく、ただひたすら無言で文を追い、脳内で情景を想像し、(みくのしんさんの邪魔がなければ)無言で読書を終える。みくのしんさんの邪魔があったから「一応、最後まで目は通したよ。」「(前略)それで本当に読めてんの?」「読めてねえよ。」(特典p12)となる。ふだんから本を読む人ならわかる、読書とはこういうものだ、とわたしも思う。 それでも、みくのしんさんにとっては「かまどの『山月記』は、俺のと全然違った」「そっちは読んだことない」(特典p12)となる。「本の読み方って、人によってこんなに違うの???」(特典p7)なのだ。そしてそれは、かまどさんや、読者であるわたしが、みくのしんさんの読書体験を見守っていて思うことである。 みくのしんさんの本の読み方って、自分とは全然違う。 国語の教科書なんて絶対に読んだことあるし、なかでも本書で題材にされた4篇は特に記憶にある作品群である。だから知らない物語では決してない。それなのに、みくのしんさんの目を通して再び触れた物語たちは、記憶のなかのそれらとはまったく別の様相を見せ、気づけばわたしもみくのしんさんと一緒になって一喜一憂しながら物語を楽しんでいる。 本書は、他人の読書体験を読書するという稀有な体験ができ、こんな読書の楽しみ方があるんだと読書の新たな可能性に気づかせてくれ、また今後も彼のさまざまな読書体験を見守らせてほしい……と思わせてくれる、そんな楽しい読書体験のできる一冊である。 かまどさんのあとがきに、本を読めるかまどさんが本を読めないみくのしんさんの読書を見守ることに対する心情が綴られている。学生時代に国語ができて、今でも読書ができる人にとってはかなり共感できる感情がそこにあるなと思った。 - 2026年9月5日
読み終わった再読した著者の『葉桜の季節に君を想うということ』を友人に勧められて読み、その仕掛けに度肝を抜かれ、そのような仕掛けに延々とハマりたくなって短編集を購入。ハッピーエンドが好きだがバッドエンドやいわゆるメリバも嫌いではない。 本書はさまざまな色を持ったアンハッピーエンドがみちみちと詰め込まれている極上の短編集であった。 どの話もかなり好きな部類だったが、「永遠の契り」と「In the lap of the mother」はサクッと読める掌編なうえ現代の事件や社会問題を題材にしており、「永遠の契り」なんかは今後の私生活で自分も気をつけなければ……と胸に誓ったところである。 社会問題というと「防疫」もそうなんだが、こちらは語り手にイライラしっぱなしでわたしの読書における精神衛生上よくなかったし、題の意味がラストで回収されたあの展開はほんとうに救いがなくて悲しくて、せめて二人で幸せになってくれよ〜とも思ったけど、彼ピのほうはぜったい今後しんどくなるよなあと想像してしまい、鬱 ところで「In the lap of the mother」は直訳すると「母親の膝の上で」らしいんですけど、母を神に置き換えると「神のみぞ知る」「運次第」みたいな意味を持つらしく、母の膝の上で起こったあの出来事とその結末のダブルミーニングっぽくなっていて、だから英語の題にしたのかなとセンスを感じた。 ちなみに本書の中の二作目と十一作目の仕掛けには『葉桜の〜』みを覚えた。まんまと騙された。 - 2026年9月4日
麦の海に沈む果実恩田陸,笠井潔読み終わった再読した𝕏のラブフォロワーに勧められて。 ファンタジックで幻想的な閉ざされた学園もの。ミステリーな事件が起こるものの、鮮やかな解決劇は特になし。第15章の怒涛の種明かしと終章のまとめにはちょっとむりやり感があったというか、すんなり受け入れられる展開ではなかった。モヤモヤが残る読後感。 善良な人間を自負しているので主人公が女の子集団にちょっかい出されるシーンでいちいちイライラしたし、主人公を取り巻く人々の真意がずっとわかりかねる状態が続くのもストレスだった。 でも世界観と登場人物たちはみんな魅力的なので、めちゃくちゃ翻弄されるけれどかなり好きな部類の作品ではある。 解説はちんぷんかんぷんだったので、関連する前作はとりあえずいいかな……本作だけを自分のなかできれいに完結させておきたいかもしれない。 - 2026年9月4日
- 2026年9月4日
読み終わった電子で無料という感想を見かけて。 黄色い付箋に導かれてページを捲った冒頭、でかい字が出てきて何事!?とビクついたが、字がでかいのでスワイプする手が止まらなくなり、従来サイズに到達したところで文字を追うのが苦にならないくらい物語の登場人物のその先が気になりすぎてやっぱりスワイプが止まらず、一気に読了。 あんまりない親子関係にドキドキしていたが、それが気にならないほど出てくる人物全員がいいやつ。『卵の緒』の続編ということで、そちらも読みたくなった。 本を読む楽しさを味わうポイントをアドバイスしてくれるような付箋に、ふだん読書をしているときに自分が無意識に取っている行動がかなりあり、わたしってけっこう読書を楽しんでいるのだなあとあらためて思った。 - 2026年9月4日
死人の口入れ屋阿泉来堂気になる - 2026年9月4日
夜空に泳ぐチョコレートグラミー町田そのこ読み終わった再読した淡い色の魚とおいしそうな名前の題、読んだことはないけれど本屋大賞を受賞したということだけは知っている『52ヘルツのくじらたち』の著者、そのデビュー作がR-18文学賞受賞作であるというだけでちょっとだけ敬遠していたけれど、表紙と題でまあ一度読んでみようかなという気になった。結果、もっとはやく出合っていてもよかったなと思った。 水槽みたいな街で、それぞれの息のしかたを探して生きているひとびと、かれらの生きる世界が重なって、離れて、また重なって、その繰り返しで。わたしの人生もきっとそういうものなんだろうなと感じた。けれどわたしはかれらのように苦労したことはないので、きっとほんとうの意味でかれらのことを理解ることはないのだろうなとも思う。 「カメルーンの青い魚」と「波間に浮かぶイエロー」の仕掛けには、ふだん読むミステリと同じくらいドキッとする衝撃があったけれど、そこに秘められた優しさと愛おしさとほんのり感じる切なさに、読者にそれを隠していた・こういう仕掛けにした効果を食らったなという実感があった。 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 「場所さえ変えればりゅうちゃんは息がしやすくなっただろうに、りゅうちゃんはこの街にいた。」(p14) 「りゅうちゃんは、ここで必死にヒレを動かして、生きてくれた。私の為に、苦しいのに一所懸命ヒレを動かしてた。」(p39) 「りゅうちゃんがここでどれだけ生き苦しそうにしていても、傍にいて欲しかった。同じ水の中にいれば、私は幸せに泳いでいられたの。」(p39) 「この水槽の向こうにはもっとたくさんの水槽があるんだよね。(中略)いちいち怖がってたら、生きていけない。あたしたちはこの広い世界を泳がなきゃいけない」(p99) 「あなたがわたしのことを一生想うんなら、わたしも一生覚えています。この世のどこかにわたしのことを好きなひとがいて、わたしのことをいまこの瞬間も想っているんだなあって。(中略)だから俺は、彼女が生きてる限り、生きていられる。」(p199-200) 「ねえ、誰か教えてください。場所だけじゃなかったんです。私は群も、無理なのです。(中略)ねえ、私は、どこが壊れているのでしょうか。」(p260) 「そしたらさ、両手に感じたんだ。どくどくと流れる血の流れを。こんな状態でも、命は必死に流れてる。(中略)欲しがっても手に入れられないものなのよ。どんなにボロボロでみっともなくても大切にしましょうよ、って。」(p310)
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