女の子の背骨

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okabe@m_okabe2025年11月13日読み終わった「オフィーリア23号」 家父長制を内面化させた那緒は、ヴァイニンガーの思想をSNSで発信し、フェミニズムに潜むマチズモを批判し、性的対象としての女を引き受ける。 しかし那緒の両耳の内側には悲鳴が溜まっていた。非在とされてきた女(オフィーリア、慰安婦、そして那緒自身)の悲鳴が。どれだけ隠そうと誤魔化そうとしても、女は確かに存在していた。 「女の子の背骨」 ガゼルは、思い難病を患う姉と比べて、自分の方が死に近いことを自覚している。だから五感を精一杯使って生きていることを実感しようとするし、それを姉に見せつける。 ガゼルにとって、何かを撃ち殺したいと思うことは、生きている実感の究極の形なのかもしれない。




もぐもぐ羊@sleep_sheep2025年11月5日読み終わった表題作を読了。 ガゼルも姉と同じ難病を抱えてるけど、姉よりは動けるし旅行にも行ける。 きょうだい児の視点なのだと思う。 ガゼルが拳銃で撃ち殺したいのは誰なのか?(何なのか?) 子どもでなのに大人びた彼女が何を考えているのか、私には想像するのが難しいけどきっと複雑なのだろう。









もぐもぐ羊@sleep_sheep2025年11月3日読んでる表題作にたどり着けず「オフィーリア23号」だけ読了。 今の20代の大学院生ってこんな感じなの?世代が違うから全然わかんない…と居心地の悪い思いで読み進めた。 主人公の那緒の歪みの原因が生育歴にありそうだけど、彼女の思考が一貫しているようで支離滅裂な気がして読んでいて困惑した。 本人も認めている「邪悪」な行動が彼女を壊さなければいいなと思った。









ヒナタ@hinata6251412025年10月31日読み終わった併録の「オフィーリア23号」に撃ち抜かれた。 「女は存在しない」という言葉とともに死んだオフィーリアの絵を不特定多数に飛ばしたその指が存在することを選択した彼女たちの石像に触れるまで、あらゆる共感も連帯も同情もカテゴライズも要約も冷たく跳ね除けて最後に石像に触れた肌の体温だけがじんわりと残る。 市川沙央さんの小説、硬質でクールで噛みごたえがあって大好きです。何度も読んじゃう。 表題作も読んだけどまだうまく消化しきれてない感じ。また何度か読んで考えよう。

橋本吉央@yoshichiha2025年10月4日読んでる表題作「女の子の背骨」。 主人公ガゼル(本名なのか、ニックネームなのか?)は筋肉が弱まる病気がある10歳の女の子。姉も同じ病気で、より重症であり、人工呼吸器、食道と気道を分割する手術などを受けている。 夏休みに、姉は日本において、父と母と叔父叔母と共にグアムにバカンスに来ている中での出来事や思うことを、姉への書き置いてきた手紙や過去のやり取りなどを回想として挟みながら語っていく。 病気が重い姉に周囲の注目が集まりがちなきょうだい児の問題もバックグラウンドとして感じさせつつ、一緒の空間にいながらも大人と子どもでどこか決定的に分断が起こる環境、そしてそれに大人は無自覚あるいは気付いていても何もしようとしない、さらに子ども側は実質主人公ガゼル一人になりがちな構造。そういう自由であるようでいて強い閉塞感を主人公のガゼルから感じた。 悪態文学・少女版であり、きっと作者も子どもの頃から周囲の大人たちを少し引いて冷めた目で観察していたのだろう(作家になるような人はそういう人が多そうだが)な、と感じたりした。 「オフィーリア23号」でもそうだけれども悪態の文体で紡がれる言葉としての不満に「必ずしも現れていないもの」が、むしろ大事なのかもしれない、それを隠すための理論武装し洗練された悪態、という構造なのかな・・・と想像したりした。



橋本吉央@yoshichiha2025年10月4日読み終わった2作ともすんなりと「読んでわかった」という感じにはならないような作品の気がする。 『ハンチバック』もそうだったが、非常に確固たる、アカデミックでソフィスティケイテッドな悪態の文体は常にあり、普通に読んでいるとなんとなく読者としてたじたじになりそうである。 でも、2作とも、悪態として明確に言葉にされていることの少し影の部分に、言葉にはならない苦しみがある、そしてそういう構造になっていること自体を語り手が認めたくない、拒否したいと思っているような、矛盾のようなものがあるのかもしれないな・・・と、ChatGPTとラリーをして思ったりした。正しいかどうかはわからないが、自分なりの読み方が少しはできた気がして、ちょっと嬉しい。




橋本吉央@yoshichiha2025年10月3日読んでる「オフィーリア23号」。 難しいなーと思って思い出しながらAIに感想をぶつぶつ打ち込んで考えてみると、、、 安易に答えやスタンスを表明してすっきりするのではなく、いっぽうで「複雑だよね、両方あるよね、難しいよね」みたいに「安易な葛藤のメタ認知をする」のでもなく、身体的、内面的などこまでもわだかまりとして残るものを、悪態の文体を通してそこに見せているような・・・そんなふうに感じた








































