

紫嶋
@09sjm
読書備忘録
文芸から新書から学術書まで、幅広く読みます
- 2026年7月10日
「いき」の構造九鬼周造,藤田正勝借りてきた読み始めた - 2026年7月9日
一次元の挿し木松下龍之介借りてきた読み終わった※ネタバレ注意※ 話題作。あらすじのインパクトと引力がとにかくすごいなと思う。これだけで「読みたい」と思わせる設定の力を感じる。 正直なところ、そのあらすじの一番の売りであるところの「何故二百年前の人骨と現代を生きる妹のDNAが一致したのか?」については、登場人物の一人の専門が遺伝子学であることや、その人物が過去に成したとある功績が語られた時点で予測できてしまった。 なのでそれ以降は、主人公を取り巻く人々の思惑や、全ての裏に隠された真相が何なのか、それを楽しむ方向にシフトしつつ最後まで読んだ。最後の最後まで、どう着地するのか好奇心が刺激される展開で面白かった。 企業と新興宗教の裏のつながり、遺伝子学という学問や科学の話題もふんだんに出てくるため、硬派なミステリ作品かなと思いきや、人物描写…とりわけメインの女子たちの書かれ方は割とライトだなぁと感じなくもない。よく言えばキャッチーで魅力的、悪く言えば男が都合よく惹かれるラノベ的なキャラクター。ちょっと非現実すぎる。 そのためか、脳内で概ね実写調でイメージできていた中で、彼女らはアニメ絵でしかイメージができず。実写ドラマのキャスティングをチラッと見た感じ、その辺はもう少し大人びた雰囲気の俳優さんたちをあてている様子で、そうなるのもわかる気はする。 文体も読みやすく、読書習慣のある人であれば、サクッと読めると思う。 - 2026年7月7日
十角館の殺人 <新装改訂版>綾辻行人読み終わった買った電子書籍この本を読んだのは、今回が二度目。 一度目は、紙の文庫本。一昨年の旅行中、長距離の電車移動の最中に、のめり込んで一気読みした。 舞台化されるにあたり内容を復習したいと思い、今年再読。今度は電子書籍を選び、暇を見つけてはゆっくりと読み進めていった。 真相を知る瞬間の衝撃は、初読の一度きりしか味わえないとびきりのご馳走だった。この作品は特に、その「一回きりの瞬間」があってこそなところがあるので(ミステリとは大抵そういうものかもしれないが)、二度目以降はどうしてもおさらい感が出てしまう。 とはいえ、全てを知った上で細部を噛み締めつつ読んだ二度目も、それはそれで面白かった。登場人物それぞれに愛着も湧いてくるし、本の形態や読むスピードが違っていたのも良かったのかもしれない。 改めて読んでみると、この作品は日本の現代ミステリの金字塔の名にふさわしい、新しい古典と呼んでも差し支えない一冊でありながらも、決してすこぶる優れた名探偵がいるわけでも、複雑極まりない繊細なトリックが存在しているわけでもない。 作中の探偵役は皆どこか見当はずれな方向へ推理を自由に羽ばたかせがちで、それが逆に読者のミスリードを誘う。 犯人の手口や計画も、明かされてしまえば割と運任せや行き当たりばったり、忙しなく駆け回りながらなんとか成立させたもので、これでよく犯行を完遂できたものだと思う。動機だって同情の余地はあるが、突っ込みどころがないわけではない。 登場人物たちの背景について、佳境に差し掛かってから唐突に「実家が病院で〜」「家族を強盗に殺されていて〜」などが飛び出してくるのも、都合よく生えてきた設定に見えなくもない。 そう考えると、割と内容としてはフワフワしているのである。 それでも稚拙という印象にはならず、作品としてここまでの面白さを叩き出しているのは、徹頭徹尾エンタメとして、読者を楽しませるカラクリとしては抜かりなく構成されているからであり、そして誰もが口を揃えていう「あの一行」が、これ以上ないという最高のタイミングで目に飛び込んでくるからだろう。 だからちゃんと面白い。「あの一行」の衝撃を味うためだけに読む価値があると感じるからこそ、他人にもオススメしたくなる一冊である。 - 2026年7月6日
家から5分の旅館に泊まるスズキナオ借りてきた読み始めた - 2026年7月2日
花まんま朱川湊人借りてきた読み終わった昭和の時代を舞台に、「大人による幼少期の回想」という形で綴られる短編集。いずれの話も人の生と死の気配が色濃く漂い、そこに性や差別、幻想がゆるやかに織り込まれている。 回想の物語であるというのがポイントで、つまり作品はどれも子供目線で語られる。 まだ人の生き死にというものに対しても、性的なものや差別的なものについても、また現実と非現実の境界に関しても、大人ほど明確に意味づけや線引きをしていない(できていない)子供の目を通した物語だからこそ、全てが渾然一体となったありのままの形で展開する。 それを目の当たりにした子供たちも、なんとなく嬉しくなったり悲しくなったり、不安を覚えたり妙に悟った気になったり…という素直な感情を抱く。そこから生まれる柔らかさのようなものも、この本の味わいの一つに思う。 とはいえ、子供目線の物語であっても子供のための物語ではないので、登場人物の中にはひどいとしか言えない大人も沢山出てくるし、語り部だった子供の中にはその後悲惨な人生を歩んだ者もいる。幻想的な要素が組み込まれつつも、人間に関する描写は大変現実的であるところもまた、作品らしさかもしれない。 いくつか収録されている話の中でも、表題作の『花まんま』は、一番安心して読めるというか、あまり人間の醜悪な面に触れることなく、温かな気持ちになって終われるお話だった。 (この話は映画化もされたようだが、登場人物の設定などが大幅に改変されてる様子なので、原作は原作として読まれて欲しいと思う)
- 2026年6月26日
- 2026年6月21日
- 2026年6月21日
怪異学の可能性東アジア恠異学会借りてきた読み終わった『東アジア文化圏における「怪異」のあり方の把握、「怪異」という言葉の持つ歴史的有用性の発見と解読などを目的』とする学究団体による論考集。 現代の我々が怪異と聞いて思い浮かべるホラー現象やオカルティックな創作話ではなく、近代以前の日本においていわゆる「ふしぎなできごと=怪異」の類がどのように捉えられ、対処されてきたのかを、歴史学的な観点から分析・考察をしている。 これらを事象そのものに着目したり、民間伝承的な領域で探ろうとすれば民俗学の方へと寄っていくのだろうが、この本で行われていることはそれとも異なっている。 各時代における政治の場面でどのように「怪異」が取り扱われてきたのか。支配階級にある人々が何を「怪異」と捉え、それに対してどう対応をしてきたのか。 例えばある時代においては、朝廷と縁の深い寺社仏閣の境内で動物の不自然な死骸が発見されたなら、それは不吉な予兆(お告げ)であるとされ、占いや祈祷を行うという対処法まで確立されていた。「怪異」が起こった際、それに対処することが、むしろ政治の大事な仕事だった時代が確かにあった。 いくつもの論考からは、ある意味ではとてもシステマティックに「怪異」が取り扱われてきたことや、時代や政治体系の変遷と共に「怪異」のあり方も変化してきたことが浮かび上がってくる。 着眼点としてはとてもユニークだと感じた。怪異を極めて真面目に、学術的かつ史料に基づいて分析・考察することで、歴史的「事実」のみを追っていては見えてこない側面も捉えることができるかもしれない。 試みとしては面白いと感じるその一方で、「怪異」という言葉そのものに囚われすぎている印象も少し受ける。 また、科学的知識の不足していた近代以前の日本では、本来はもっと多くの出来事が「ふしぎなこと、こわいこと」として見なされていたはずだが、そこから娯楽的要素、民間ベースの事象を取り除いていくと、後に残るのは「鳥居が倒れた」だの「動物が死んだ」だの「火事になった」だのといったことばかりで、似たパターンの寄せ集めになってくる。 それらの「事象&対処の事例」を史料から拾い集め、この時代はこうだった、あの時代はこうだったとまとめるのみでは、学術的な広がりはあまり見込めないかもな…とも思う。 思考の枠組みは面白い分、中身がワンパターンになりがちに感じたのが残念だった。 - 2026年6月20日
借りてきた読み終わった中東・イスラーム圏に関する文化人類学者である筆者が、自身の研究や現地滞在の経験をもとに、イスラームの人々の生活に深く根付いた「移動」のあり方などについて綴った本。 位置付けとしてはエッセイとのことだが、しっかりとした研究が土台にあるため、深い考察やデータを交えた記述も多い。 歴史的に見ても、イスラームの人々は生活や商い、巡礼や学問のためなど様々な理由から絶えず世界の広範囲を移動してきたこと。また、それを彼らは個々人レベルで肯定的かつ積極的に行なってきたことが読み取れる。それらは侵略や布教といった目的ではなく、あくまで生活様式である。 彼らの移動は物や知識、信仰を世界中に運び、今日に至っている。 筆者は、そんなイスラーム的な移動のあり方と、一つの場所にとどまることを良しとする傾向にある日本人とを対比させるように書きつつも、日本においても古くは「動」の文化が確かに存在していたこと、また現代社会においては生活様式の変化や技術の進化、国際化などにともない、人間全体が移動志向になるだろうとも書いている。 なにぶん、この本が書かれたのは30〜40年前のことで、歴史的な内容はともかくとして、現代社会の分析としては内容が古い。 ただしそんな中でも、筆者が述べる異文化間での「共存」と「共生」の違いや、イスラームの人々の文化や生活のあり方については、今この時代においてもヒントになるように思う。 現在、日本にも様々なルーツを持つイスラーム(ムスリム)の人々が移り住んでいる。差別的に排除するのか。生活様式の全てを日本的にすることを強いるのか。それとも、うまく折り合いをつけながら「共生」していくのか。 この本を読みながら、この先の日本の選択についても思いを馳せることになった。 - 2026年6月17日
桃を煮るひとくどうれいん借りてきた読み終わった日常の食にまつわるエッセイ。飾らない文体で綴られた、食べることを純粋に楽しんでいるエピソードの数々に、読みながら自然とこちらの方の力も抜けるようだった。 何気ない言い回しや着眼点に、筆者の独自のセンスが光る。 一人だと外食できないという話は、単独行動上等な私とは正反対で、そういう人もいるんだなぁ〜と驚き半分興味半分。 けれどそういう筆者だからなのか、この方の食のエピソードには、常に「他者」の気配や温度、思い出が寄り添っている。 誰と食べたのか、どんな会話をしたのか。幼少期の家族との思い出や、人から送られてきた食べ物。 それらがあるからこそ、各エピソードがより特別なものに見えてくるのかもしれない。 個人的に、「焦げちゃった」と「ねずみおにぎり」のエピソードが好き。私もやりたくなった。 - 2026年5月23日
今夜はジビエ小川糸借りてきた読み終わった有名作を数多生み出していらっしゃる小説家さんの暮らしのエッセイ。小説の方は一作も読んだことがないまま、いきなりエッセイに触れてしまったのは、果たしてよかったのか笑 手作りを楽しみ、自然を愛で、小さな工夫をこらしながら穏やかに暮らす人の生活の様子を知るのは、純粋に興味深いし色々と参考にもなる。 そうした理由で時折こうした暮らし系のエッセイに触れるのだが、本作もまた様々な面白さや興味のひかれる話題があった。手作り石鹸の作り方や、ハーブの育て方など、読む中で気になった話題があると、その都度読書を中断してネットで調べてみたり。 しかしまあ、少し穿った見方をするのであれば、環境や動物を守るべしと唱える人が、原生林の土地をわずかであろうと買い上げ拓いて山小屋を建ててしまったり、都市的な生活への疲れを訴え不便でも自然の中での生活が良いと言いながら、それでも車ありきネットありきではあり、かついざとなれば東京という大都市に戻ることもできる環境はキープしたままであることを踏まえると、こうした「自然と共存する素敵なライフ」の裏側にある、余裕ある人間の傲慢さや矛盾をも感じてしまった。 日本人、ある程度の年齢になると田舎暮らしやロッジ暮らしに憧れるもんねっていう。 とはいえ、長野の山の暮らしはさぞ美しかろうと思う。その光景を想像すると、やはり惹かれるものがあった。 - 2026年5月21日
金木犀とメテオラ安壇美緒借りてきた読み終わった北海道の新設私立女子校の一期生として入学した少女たちの、青春と葛藤の日々の物語。 メインとなる二人の少女は、成績首位を争う学年のツートップ。しかしそれぞれに、家庭環境の悩みや、自身のプライドと現実との差などに喘ぎ、苦しんでいる。 周囲からは「なんでもできる天才」「才色兼備のマドンナ」であるように一目置かれている彼女らも、本人たちは溺れそうになる現実の中で必死に水面を目指すようにもがいている。そしてそれを他人には悟らせず、血の滲むような努力を重ね、しかし内心ではギラギラドロドロと感情を燻らせたり、時に他人を「自分より恵まれている者」だと勝手に決めつけ蔑んだり羨んだりもする。 十代の、まだ狭い世界の限られた選択肢の中で生きているからこその、じりじりと足場がなくなっていくような窮屈な焦燥感が描かれており、大人から見ても苦しそうだなと感じる。 そんな「悩める少女」たちを、決してキラキラした青春の1ページというだけで美化することなく、醜い部分も含めて描かれているのがよかった。 また、そんな彼女らを取り巻く等身大の友人たち、人の良さが伝わってくる寮母、時にそっとヒントになるような一言をくれる先生といった存在も、良いアクセントや癒しとなっていた。 この作者の作品は、まず『ラブカは静かに弓を持つ』を読み大変面白く感じたが、それを受けて期待を込めて読んだデビュー作『天龍院亜希子の日記』は残念ながらまったく面白味を感じられずにいた。 この『金木犀とメテオラ』はその二作の間に書かれた作品にあたるが、こちらは物語や人物に厚みがあって、とても良い作品だったなと思う。こちらの方が、デビュー作よりも作者本人の本来の持ち味が発揮されているのだと思う。 ただ、たとえ植生が本土と少し異なる北海道であっても、さすがに春に金木犀が咲くことはないと思う。おそらくそこには特別な意味はなく、単に作者の勘違いによるものか。 金木犀が根付くことが一つ大きな奇跡として象徴的に使われている分、咲く季節の設定を盛大に誤ったままなのはもったいなかった。 - 2026年5月13日
紙の動物園ケン・リュウ,古沢嘉通借りてきた読み終わった氏の出世作を含む全17編の短編集。ボリュームたっぷりで、読み応えと満足感が素晴らしく、ページ紙のセピアカラーの色合いもたまらない。紙の本で是非読んでほしい一冊。 全体のジャンルとしてはSFで、いくつかはほんのりファンタジーであったりヒューマンドラマであったり。自由で柔軟な無限の広がりを感じる発想と、人の心理の繊細な描写が光る。 作者の生まれと文化のルーツである中国や、周辺の日本を含む東アジアの描写、価値観、宗教観などを積極的に取り込んだ作風は、不思議な心地よさや馴染み深さ、ノスタルジーのようなものすら感じた。 時には欧米人からアジア人に向けられる容赦ない差別の眼差しや、中国・台湾が戦時中に経験した苦しい歴史にも触れられており、そうした描写に日本人として胸が痛む。 ハリウッドで映画化されるような、欧米的SFとはどこかテイストの異なるSFに感じたのも、もしかすると作品の中にどこか香る東アジア的な考え方、価値観によるものなのかもしれない。 たとえば近未来的技術の果てに辿り着く境地はどこか悟りにも似て、人間の進化の先で新たな姿形へ変容する様子も輪廻転生を思わせる。 その中で迷い、葛藤し、後悔し、時に自己犠牲的な選択すら厭わない人の姿に惹かれた。 この一冊を読んだだけでも、作者の生み出す物語や世界観にグッと魅了された。 他の短編集も是非読んでみたいと思う。 - 2026年5月3日
コンビニ人間村田沙耶香借りてきた読み終わった文量文体ともにライトで、大変面白く一気読みしてしまった。 「普通な」「真っ当な」「正しい」人間であること、そういう生き方を社会は絶えず要求してくる。そういう社会に疑いを持つことなく、上手く適合できた人間は、社会の「声」を代弁するように、今度は身近な人間にも「(自分のように)そうあれ」と布教するが如く執拗に要求してくる。 そしてその要求に応えられないことが確定した時、人は「社会不適合者」の烙印を押されて非難や軽蔑の対象となる。 この物語に登場する恵子も白羽も、どちらもそういういわゆる「社会不適合者」で、社会的には似たような(どうしようもない)状況にあると見做されるだろうが、精神が置かれた状況は随分と対照的だなと感じた。 白羽は、今の言葉で形容するなら「弱者男性」というやつだろう。言動の一挙一動、被害者意識をそのまま他者への加害性にシフトさせるような振る舞い。正直言ってかなりキショいし、そしてあまりにリアルな描写に、こういうヤツ現実にもたしかに一定数いるんだよな…と頭を抱えてしまいそうになった。 恵子に対し「普通の人間」であることを要求する周囲の反応の数々もまた終始リアルで、社会に適合できている自分は他者の人生をジャッジする権利があると言わんばかりの言動に、不快感や不気味さを覚えると同時に、でも「普通」の人たちって実際こうだよな…という絶望的な納得感もあった。 全編を通して、恵子のことを「ちょっとぶっ飛んでるな」とは感じたが、おかしいと非難や軽蔑をする気にはならなかったのは、私自身もまあまあ社会不適合者で、多分恵子側の人間だからなのかもしれない。 恵子の中にある「普通な」「真っ当な」「正しい」の基準は、社会的な基準とはズレていて、それが奇跡的にぴたりとハマる場所がコンビニだったんだろうと思う。 社会には適合できなくとも、コンビニという場所であれば積極的に自分を適合させることができ、コンビニ店員という生き方であれ ば、世界の歯車の一部にだってなれた。 単なる職業という以上に、生き方としてのベ ストが、恵子にとってはコンビニ店員だった(それがたとえ「人間」としての生き方としては非難されるものであっても)。 ただそれだけのことだよな、と思う。それでいいのにね、とも思う。 恵子がそうした生き方を早くから発見できていたこと、それを真に自覚することができたことをもって、私はハッピーエンドだなと感じた。 - 2026年5月1日
この闇と光服部まゆみ借りてきた読み終わったこれはネタバレなしで是非とも読んでもらいたい一冊。 「あ、そういうこと!?」「え、そうなの!?」というポイントがいくつもあり、この先何が起こるんだろう…という好奇心が最後まで続いた。 (以下ネタバレ注意。) 明かされる真相に驚いたり、真相のさらなる核心に想いを馳せるという点ではミステリかもしれないが、この物語の真髄は恐らくそうした表面的な出来事や事実ではないのだろうな、とも思う。 年齢という精神的制約と、視力という物理的制約によって「現実」を知らずにいる幼子が、最も純粋な幼少期に美しいものだけを与えられ、創り上げられた幻想の中で育てられたなら。その子にとってはそれこそが世界の全てであり、完成された箱庭であり、拠り所であった育ての人は神にも等しい存在であり…。 現実から見ればそれらは虚構でしかなく、真相を解き明かそうとすればするほど犯罪性や犯人像といった身も蓋もなく無粋な言葉に置き換えられていってしまう。 幻想を解体し、現実に適応することが正しいのだと頭ではわかっていても、それをどこかで惜しいと感じてしまう。 それほどまでに、信じ込まされていた幻想や、そこで与えられた芸術の美には抗いがたい魅力があった。 ネバーランドの喪失を体験するような痛みを、主人公を通してこちらも味わうかのようだった。 - 2026年4月23日
慄く 最恐の書き下ろしアンソロジー北沢陶,恩田陸,有栖川有栖,櫛木理宇,背筋,貴志祐介借りてきた読み終わったこれで、角川の最恐アンソロジーシリーズは3冊とも読破したことになる。 いずれにも言えることだが、商業の小説アンソロジーとはいえやはり玉石混交感は否めない。「最恐」と謳いつつもあまりにぬるいホラーであったり、そもそもホラーなのか微妙な作品もあったり。正直、満足感はそれほど高くないシリーズであった。 勿論そこにはこちら側の好みや価値観もあるため、作者や本に全責任を被せるつもりはない。 逆に言うと、普段は好きな作家の本だけを選んだり、あらすじであらかじめ好きそうな話を絞ったりしがちな読書習慣において、時々はこうして様々な作家の作品が集められたアンソロジーに手を伸ばしてみると、いろんな発見もあった。 昔から好きな作家については、やっぱり好きだなあと再確認できたり。 新たに好みの作風の作家を知ることができ、読書の幅が広がるきっかけになったり。 (逆に、あーこの人の話はやっぱり合わないなとか、こういう文体は苦手だなと思うこともあるが笑) そういう意味では、アンソロジー本を読むことは常に「冒険」だなと思う。 この「慄く」に限って言えば、北沢陶さんの文章と出会えたことは実に良き体験だった。今度改めて北沢さんの本を読んでみようと思う。 - 2026年4月21日
傷のあわい宮地尚子借りてきた読み終わった同じ著者の『傷を愛せるか』がとても良い本だったため、こちらも読んだ。 あちらが幅広く様々な心の傷を取り上げていたのに比べると、こちらの本は主に異国に暮らす日本人や、異文化・別国籍の人間であることの苦労などをテーマとしているため、そういった意味では「当事者感」があるか否かは読者によって分かれるかもしれない。 私自身も、日本人として日本で生まれ育ち、留学経験などもなく、あまり周囲に他国の人がいたこともない人間のため、どちらかといえば本のテーマからは外れる人間ではあるが、著者の客観的かつ繊細で柔らかなフィルターを通して語られる物事を読み進める中で、ふとした瞬間に「我ごと」としても捉えられる普遍的な問題がいくつもあった。 またこの本で語られている、異国に暮らす日本人が陥りやすい精神不調、国籍の違いから生じる偏見や軋轢といった課題は、現在であれば日本国内で暮らす外国出身の人々が抱えている問題にも繋がってくると思う。 その人たちや、その人たちの置かれている環境を、どう客観的に捉えて解釈していくのが良いのか…というヒントも、この本の中にはあるのではないか。 そういった点では、誰もが「当事者」になり得るテーマを多分に含んだ一冊である。 - 2026年4月9日
天龍院亜希子の日記安壇美緒借りてきた読み終わったこれはまず、あらすじ紹介文が悪いというか誤解を招くというか……。 「元同級生のブログに綴られていたこととは——」と煽るような文言になっているが、作中でこのブログの存在や内容が物語に深く関わってくることはなく、主人公にどんな影響を与えているのかも明確ではなく、そもそもブログ文もちらほら意味深な演出のように合間に挟み込まれるだけ。決して何かミステリーや謎解き要素があるわけではない。 主人公の過ごす日々へ対する暗喩や皮肉だったのかもしれないが、何のために存在していたのかイマイチ印象に残らなかった。このブログがなくても、成立する小説だったような。 タイトルも、確かに「このタイトルでこの内容なんだ!?」という驚きにはつながるかもしれないが、肝心の天龍院亜希子という人物やブログが物語の装置として不完全である以上、「逆に何でだよ…」みたいな腑に落ちなさの方が勝ってしまった。 希望の話だ!という売り文句もあるようだが、はたから見ていると「なんとなく普通の枠に収まるように生きてる男が、なんとなく仕事が多忙でしんどくなりつつも、なんとなく結婚もイイ感じになりそうだから、なんとなく未来も明るいカモ!」という話でしかなく…。 これが若者のありのままだ!と言われると、そうなのかなぁ、まぁそうなのかもしれないけどなぁ…。 浮気して同僚と複数回ラブホに行くようなやつが、その事実を棚上げにして勝手に見出した希望に読者として何故共感せねばならないのか?としらけてしまった。 - 2026年4月6日
赤と青のガウン彬子女王借りてきた読み終わったどなたが書いてるか云々以前に、まず純粋にエッセイとして面白い! 英国での暮らし、オックスフォードへの留学の仕組み、博士課程のハードさ、海外における日本美術研究のあり方、時折挟み込まれる皇室事情などなど……知らない世界の話が、苦労をなされた御本人の飾らない語り口調で綴られていて、とても楽しくまた興味深かった。 英語が決して得意ではなかった方が、現地の厳しい指導や環境にここまで食らいついて博士号を得て帰ってくるとは、とてつもない努力と根性、そして情熱があってこそだなぁと、ご身分関係なく一人の人間として尊敬の念を抱く。 また、お父君とのやりとりや思い出の記述からは、普通の家庭の父子とは違う難しい距離感も感じながらも、それを飛び越えた双方の愛情が滲み出ていて、読みながら目頭が暑くなる思いもあった。 彬子女王が記された新しいエッセイも発売されたと聞いたので、そちらもぜひ読んでみたい。 - 2026年3月28日
女二人のニューギニア有吉佐和子借りてきた読み終わったある種の無謀さと軽率さで、文化人類学者の友人に誘われるままニューギニアへ行って〝しまった〟筆者の、ドタバタ現地滞在記。 西洋文化(あえて文明とは書かないでおく)がようやく一部の地に届き始めたばかりの当時のニューギニアの、未開の山奥に暮らす部族の様子が書かれているという点では貴重かもしれない。 とはいえ筆者自身は決して積極的に記録するために足を運んだわけではなく、右も左も分からないまま行き、なし崩し的にそこで短期間生活をしていただけなので、文化誌ほどの精密さはない。 あくまでそこでの生活を体験した人の生の声、苦労話や笑い話の思い出という体裁である。 お二人は友人同士ということだが、そういう世代なのか、はたまたこれも本人たちの仲の良さなのか、双方なかなかに歯に衣着せぬ物言いであったり、過酷な環境のせいか気性の癖が強かったりの印象。 他人事として読む分には、面白いやり取りだなーで済むのかもしれないが、実際交流を持て、一緒に生活してみろと言われたら「いや、キツいっす笑」とご遠慮したくなる気持ちが正直あった。 現代に生きる人間の目から見て、半ば興味深く、半ば不愉快でもあったのは、「自分は差別には反対だ!」と意識的に述べている筆者が現地民に向ける眼差しの中に、明らかに無自覚の差別意識が見え隠れすること。それは、彼らを研究対象として現地に住み込んでいる文化人類学者のご友人もまた然り。 これが当時の意識のあり方だったのだろうなという発見や呆れを覚えるとともに、ならば現代人の意識は少しは進歩しているのだろうか…していたらいいな…と願いたくなった。
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