

あやさび
@ayasabi
愛猫サビニャックはひたすらかわいいです
- 2026年5月24日
ギター日記青木隼人読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)青木さんは音楽家で、絵も描くし、デザインもする、才能あふれる人です。 青木さんの音楽をはじめて聴いたのは、日田リベルテという映画館での演奏会でした。青木さんはステージだけにとどまらず空間の全てを使って音を作りだしていて、その音楽の中にいると、まるで山の中にぽつんといるようでした。 どこからともなく音が入ってきて、いつのまにか音楽がはじまり、きえていく。静けささえも音楽のような。 すっかり青木さんの音の景色にはまり、その後、いろんな演奏会に行きました。 あるときは、桑迫さんの個展で桑迫紙芝居と一緒に。花辺という京都の喫茶でおかゆを食べながら。 わたしの個展でもべえちゃんことベートルズさんと一緒にされているユニット”ベーブルース”として、演奏してくださいました。 とある日、わたしが琵琶湖にある蓬莱の家さんに撮影に行くとき(お仕事ではなく個人的な撮影です)、青木さんも一緒に行きたいとのことで、贅沢にも青木さんの運転で向かうことになりました。 せっかくの機会、わたしは舞い上がりながら青木さんの音楽について、いろいろ質問をしました。道中、わたしの拙い問いかけに、シンプルに真っ直ぐ答える青木さん、優しすぎるお方です。 蓬莱の家に着いた後、青木さんは『四月と十月』のコラムの執筆をするとのことで琵琶湖へ行かれました。 楽しい撮影も無事終わり、帰路でもいろいろとお話し、琵琶湖で書いていたことの内容やおすすめの本のことを教えてくださいました。 ほんとうにありがたく、とても充実した貴重な時間を過ごさせていただきました。 そして、わたしはすっかりその内容を忘れてしまいました。 落胆しましたが、こちら『ギター日記』の「はじまりと終わり」の章を読み、あっこんな話されてた!、と思い出しました。琵琶湖のことが書いてありますし、確実にこちらの話です。ああよかった…。 『四月と十月』でも読んだはずですが(念入り)、わたしの記憶力の無さに愕然としています。 『ギター日記』のおかげで、青木さんのいろんなお話何度も読めるぞ。記憶にこびりつけよう。 やはり、面白い。青木さんのことばはするするとからだに入る。草原のなかの風のように心地良い。 こちらの本、表紙の絵の、白いカーテンがギターにふれているように、青木さんの音楽のことや、暮らしや、考えてることに、そっとふれるとこができる本です。 こちら牧野さんの絵の題が『風の演奏』! 牧野さん、わかります、青木さんは風ですよね。 - 1900年1月1日
BUTTER柚木麻子読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)『バター』を読むきっかけは、土門蘭さんが読んだとVoicyで話されていて、読みたくなりました。 (土門蘭の書書然然#131) 「 生成り色の細長い建売住宅が、なだらかな丘に沿う形でどこまでも連なっている。 よく整備された町並みからはどこに居ても均一な印象しか受け取ることが出来ず、里佳はさっきから同じ場所をずっとぐるぐる回っているような気がする。冷え切った右手の指先のささくれが、大きくめくれた。」p7 冒頭から、引き寄せる文章。わあ、と声がでました。思い出したのは、ホンマタカシさんの写真集『東京郊外』のカクカクとした四角い家が並ぶ写真でした。バターの箱が並んでいるような街。わたしも以前、そんな街中で知人宅を探している時、人や動物や植物の気配も少なく、歴史の痕跡もない新しくつくられた場所にいると、自分までその均質化に染まるようで、ささくれだつような不安を感じたことがあります。 郊外に主人公が来ただけで、すでに息苦しさを感じてしまう…この均一的な町から、この物語に取り巻いていく枠の怖さを予感させます。 なぜそんなに枠に納められることは怖いのか。 女らしく。 太らないように。 女は、男は、人は、〇〇は、こうあるべき。 無意識のうちに、自ら納まろうと、自分のケアを疎かにしてまで、頑張って生活する。 気づけば、本当にわたしがしたいことは何なのか、 「同じ場所をずっとぐるぐる回っているような気が」して、わからなくなる。 太るから、むくむから、体に悪いから、 これがいいとテレビや雑誌でいわれている 健康に良いものを食べ、 本当にわたしが食べたいものって何なのか、 いまいちよくわかっていなかったりする。 『バター』を読んでいると、 ああ、わたしは自分が喜ぶことを疎かにしているんだ、 と思いました。 とにかく、バターが食べたくなり、 ごはんに、バターを一切れ、明太子を一本のせ、 かきこみました。 さらにぐう、とお腹がなり、牛乳を一杯飲み干しました。 読み終えて、ホットケーキを作って、バターをたっぷりのせて、 楽しく食べようと決めました。 友達とも食事を楽しもうとも。 あるがまま、自分らしく、レシピを教える、教わるように、だれかと繋がりがうまれて、かかわることをうけいれて、のみこんでいく、そのままのつよさを知ること。 こちらの河出文庫の『バター』には、 野間出版文化賞受賞スピーチ『帝国ホテルですてきな立食パーティーを』と、 イギリスツアー日記『どんな場所にも小説とカラオケはある』 が収録されています。 どちらも短編ですが、面白く、イギリスツアー日記はなかなか波瀾万丈で、バターのように濃厚で、読み応えありました! 全582ページですが、あっという間に読み終え、後味こってりでした。 ああ、でもあの後味…また読みたくなります。 - 1900年1月1日
編棒を火の色に替えてから冬野虹,四ッ谷龍読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)冬野虹さんの描く詩も、俳句も、散文も、絵も、…その多彩な表現のどれも、蜘蛛の糸のように細くて美しく無駄がなく、素朴です。 そして、遊び心が目一杯散りばめられています。 「ぺろーん は ギリシャのことば 運ぶということばのこころ 花は あんとす 海は たらっさ たらっさあんとすぺろーん と言うと 海の花を運ぶ となるのかな」 『ぺろーん』より抜粋 p143 冬野虹さんのことばに触れると、わたしの底に眠っていた不思議の国が目を覚ますような、未知の感覚が刺激されます。 そして、夫であり俳人の四ツ谷龍さんによる解説もあり、より深く冬野虹の作品に染まることができます。 「外国語は、単なる趣味やコミュニケーションのためのツールではなく、彼女にとっては詩的想像と切っても切り離せないものだったということを示す詩であると言える。」p308 四ツ谷龍さんは、冬野虹の作品について、 「聴覚的表現によって視覚を表すというように、複数の感覚がクロスして活用されるところにある」 p326 と書いています。 こちらの本では、その体験を味わい尽くすことができます。 気づけば、寝る前に一読しないと気が済まないほどの中毒になってしまうかもしれません。 - 1900年1月1日
たべるたのしみ 改訂文庫版甲斐みのり読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)甲斐みのりさんは、文筆家で、好きなものについての本をたくさん出されています。 「それまで自分は、おいしいものを食べるのが好きだとばかり思っていた。ところがあるとき、ふと気がついた。私が好きなのはおいしくものを食べることだと。」p32 『たべるたのしみ』は、そんな甲斐さんによる、たべることにまつわるお話がたくさん綴られています。 ページをめくるたび、どことなく甘い香りがしてくるような気がしました。 最初のお話がジャムパンだったせいか、わたしはジャムパンの甘い香りを思い浮かべました。 「私にとって食べることは、生きることだ。」 そう書いてあるほど、甲斐さんの食べる思い出は、人生と濃厚に繋がっています。 そこまで、食べることについて思ったことがあっただろうか。 読みながら、わたしの中の食べる思い出も少しずつ掘り起こされていくようでした。 甲斐さんの食べることへの愛情に触れると、ただ食べるだけではない、おいしく楽しく食べることを教わります。 食べる思い出は人生の終わりまで続いていきます。たくさんのお話を読みながら、わたし自身の「たべるたのしみ」も、わくわくしながら感じていこうと思います。 - 1900年1月1日
すてきなあなたに 幸せな1ドル暮しの手帖編集部読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)雑誌『暮しの手帖』にて連載されていた小さなエッセイ「すてきなあなたに」は、書籍刊行50年周年を記念して、2013年以降に掲載したものから編纂され、新たに2冊の愛蔵版がでました。 こちらは、第2集『すてきなあなたに 幸せな1ドル』。「幸せな1ドル」「森の散歩道」「ブールデルのアトリエ」ほか、全136編が収録されています。 「すてきなあなたに」は、創業者・大橋鎭子さん発案の、人気連載エッセイです。こちらのページは紙が黄色いので、”黄色いページ”とも呼ばれています。 「あなたがすてきだから、すてきなあなただから、でなければつい見落してしまいそうな、ささやかな、それでいて心にしみてくる、いくつかのことがわかっていただける、そんな頁です」 こちらの大橋鎭子さんの言葉通り、22人の著名な方が、12ヶ月の季節の章ごと、暮らしのなかにある何気ない出来事や思いを綴られていて、読みすすめるごとに、いろいろな日常に触れ、わたしが経験し得ない暮らしが流れ込んできて、まるでそれを目の当たりしたような、不思議な感覚になります。 「君、なにを着たっていいんだよ。あんまり、わかりきったことだから、つい憲法にも書き忘れたのだろうが、すべて人は、どんな家に住んでもいいし、どんなものを食べてもいいし、なにを着たっていいのだ。それが、自由なる市民というものである」(1967年7月5日発行号) こちらは、『暮しの手帖』の創刊者であり、編集長を務めた花森安治が1967年(昭和42年)の誌面(1967年7月5日発行号)に綴った名言です。 わたしも自由なる市民であり、わたしの暮しも、すてきなあなたに、語ってもいいのかもしれません。 - 1900年1月1日
おやつがあれば、だいたいだいじょうぶ甲斐みのり読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)甲斐みのりさんの人生や暮らしのエッセイとそれに繋がる特別なおやつの情報が、30篇! どのおやつも部屋に飾りたいほどときめくものばかりで、こんなにすてきなおやつが目の前にあらわれたら、タイトルの通り、”だいたいだいじょうぶ”、という気持ちになります。 30個のおやつ、どれも食べたことないもので、はじめて見るものばかり。こんなおやつが世の中にはあったのかあ、と、なんだか気分が上がってきます。 どれを食べよう…おやつのために特別な日を作りたくなります。 「おやつは、楽しく、豊かに、機嫌よく、日々を生きるための人生になくてはならない、お守りのような存在だ。」p15 わたしにも最近、覚えがあります。 くたくたで、いらいらして、どうしようもなくなりそうになった日、いそいで大好きな「おきぬとおやつ」に行き、念願のとうふドーナツをたくさん買い、思う存分食べました。 わたしにもまだ、こうしてほっとして甘いものをほおばる楽しい時間がちゃんとある。 とうふドーナツのおかげで、ああ、きっとだいじょうぶ、と安心を得ることができました。 ほんとうに、おやつは、わたしの安心をくれるお守りです。 また、好きなページを開いて、甲斐みのりさんのおいしい文章を読み、お気に入りのおやつ(おきぬとおやつのシフォンケーキ)を食べながら、ほっと一息つこうと思います。 - 1900年1月1日
Body Journeyつるやももこ読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)2024年にアノニマ・スタジオさんから出版されたつるやももこさん著作の『BODY JOURNY』は、こころとからだの「手あてとセルフケア」について書かれた、フィロソフィーのような本です。 「たまたま続いた身近な人の病と死は、わたしを人のこころとからだへの興味へとかり立てた。からだだけでも、こころだけでも人は生きていけない。からだ(Body)とこころ(Mind)、そして魂(Spirit)は常にワンセット。お互いが調和してこそ、真のすこやかさが生まれるのではないか。そして、そうなるために自分のこころとからだをみつめる、知ろうとするということは、まるで旅のようなものではないだろうか。」つるやももこ『BODY JOURNEY』 (p161-162) つるやももこさんの書かれた文章は、ハグみたいにあたたかい。読んでいると、にこにこして両手を広げているももこさんの姿が浮かびます。 ももこさんは編集者でライターで、フラダンサー、ポニーテールで、オーバーオールが良く似合っていて、いつも別れ際、さよならを言うかわりに、ハグをしてくれました。ももこさんは細くて小柄だけれど、ハグをしてもらうときは、なんだか大きく感じました。こころもからだも柔らかい人だな、と感じて、わたしも柔らかくなった気がしました。ももこさんは魔法のような人なのです。 そんなつるやももこさんの本『BODY JOURNEY』は、身近な人たちの死に触れながらも、こころとからだに向き合い、旅をし、いろんな「手あて」をする人たちと出会って経験した”気づき”や”物語”がたくさん詰まっています。ももこさんのハグの秘密も書かれていました。 すこやかにいるために、こころとからだをみつめるために、是非こちらの本を読んで、からだを(BODY)旅して(JOURNEY)ほしい。 わたしの場合、すこやかさを思う時、あの月夜の晩、フラダンスをしながら笑ってるももこさんが、いちばんすこやかだなあと思うのです。ももこさんのすこやかさを知るために、まだまだ旅を続けようと思います。 - 1900年1月1日
カッコの多い手紙イ・ラン,スリーク,吉良佳奈江読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)スリークさんもイ・ランさんも韓国のミュージシャン。こちらの本は2人の往復書簡で、2020年の夏からウェブマガジン週刊文学トンネにて連載されたものをまとめたものです。 コロナのパンデミックで世界が混乱していたときにはじまった2人のやり取りは、なんとなく孤独で、お互い内面をさらけ出し、まっすぐ向き合っているので、読みながら胸が痛みました。 スリークからイ・ランへの手紙 「いつも別れに対する心の準備を繰り返しているけど、こんなふうに突然別れてしまう可能性もあるなんて、想像もできませんでした。 ある存在を愛しすぎるということは、もしかしたら私にでき ることの中で一番成し遂げがたいことかもしれません。」p47 イ・ランからスリークへの手紙 「“私はみんなからどう見られているんだろう?” この質問から自由になれる人がいるでしょうか。私生活のす べては暴かれたくないけれど、断片的な姿だけで評価されるのも嫌で、目立ちすぎるのも嫌で、忘れられたくはないし……………私が自分を一番よくわかっていると思うけれど、それは完全に錯覚かもしれなくて。本当に難しいですね。」p145 音楽制作や、恋愛、友達のこと、ヴィーガン、コロナ、ジェンダー、愛猫…2人がやり取りするからこそ生まれる、率直な言葉が手紙にしたためられています。 気持ちが弱っているときに読んでいたのですが、相手を思いやる優しい手紙の往復を読み進めているうちに、あっという間に読了し、弱っていた気持ちが和らいでいました。 疲れて行き詰まってしまっていたり、傷がなかなか癒せないときに、読んでみてほしい本です。 - 1900年1月1日
犬ではないと言われた犬向坂くじら読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)こちらのタイトルにやられて、ページをめくると、犬ではないと言われた犬のお話は、美味しんぼの山岡士郎の「そんなもんは、スシじゃねえ!」につながっていました。 そんなもんは写真じゃねえ!とか言われたら…しょんぼりしちゃいますが、向坂さんの柔らかい思考の結び方に、勇気が出たのでした。そう捉えるのかあ、と。是非読んでほしいお話です。 向坂さんは詩人であり「国語教室ことば舎」の代表です。国語教室はご自宅の、4、5人も入ればいっぱいになる小さな部屋でされています。向坂さんは学ぶことについて、 「学ぶ内容と生徒の間の交流が重要なのであって、先生と子どもの間の交流が重要なのではない。」(p79) と、書かれています。だからこそ、向坂さんは教えることについて、いつも悩まれています。国語の選択問題について、どれも正解だよなと思ったり、席変えしたほうが生徒が静かになるはずだけどそれをひたすら迷ってできなかったり…。その迷いの中で言葉や文章をたくさん引用されていて、席変えのときに引用された政治学者の中島岳志さんの「永遠の微調整」という言葉は、さらに夫婦間の掃除問題にも活かされていました。 「微調整、微調整。自分に言い聞かせている。微調整、永遠に、わたしたちは、よりよくなっていかないといけない。」 (p142) わたしも、微調整してよりよくなりたいなあ。まずはなぜか生乾き臭い洗濯物問題からかな…。 - 1900年1月1日
読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)こちらは、作家庄野潤三さんの随筆集になります。載っている随筆の数はなんと70作品!家族の話やアメリカで生活していた時の話、書評、映画批評、読書指南もあり、なんとも読み応えあります。そして、ページをめくるたび、時代を感じながら読書ができます。 こちらの本の中に、「庭の鉄棒」という、お庭の鉄棒にぶら下がった写真が撮りたいという雑誌社の依頼にお応えするお話があります。 写真家さんがやってきて、丁度小学生の娘さんと幼稚園の息子も帰ってきて見物しにきて、庄野さんは鉄棒にぶら下がるのですが、段々スタミナが落ちてきて不安になっているのに、熱心な写真家さんのおかげで、「最後にもう一度だけ」と言われながら、10枚も撮られたそうです。 いいものを撮りたい写真家さんの気持ちも分かりつつ、鉄棒にぶら下がって何度も身体を振らないといけない庄野潤三さんの辛さもヒシヒシと感じました。 どんな写真になったのかなあ〜と思っていたら、なんと!夏葉社さんから出ている『庄野潤三の本 山の上の家』に、鉄棒ぶら下がり潤三の写真が載っているではありませんか!! お子さんである夏子さんと龍也が傍らで見守っていて、35歳の潤三さんは飄々としたお顔でぶら下がってました。 この飄々とした顔の裏で、ほんとは力尽きて倒れそうになってたんだなあ…と、潤三お父さんのがんばりが見えたのでした。なんだか笑ってしまいます。 写真を見て、またお話を読むと、また庄野家の世界が膨らんで、より楽しく読めるのでした。 そういえば、江國香織『読んでばっか』にて、庄野潤三さんについてこう書いていました。 「庄野さんは、徹底して言葉本来の意味で言葉を使う。曖昧なイメージや感傷を、言葉に絶対担わせない。それが快感なのだ。 なんでもないことが、庄野さんの文章によって突然可笑しくなる。私はしょっちゅう笑ってしまう。可笑しい、可笑しい、と、言いながら読む。」(p218) なるほど、確かに。取材で鉄棒ぶら下がってるだけのお話でも、なんだか笑ってしまったのは、庄野文学ならではなのかあ。 「その小説なり随筆は、いわば真面目に書いたもので(真面目でなしにいったい何が書けるだろう)、誰かを笑わせようという考えは、こちらに無い。 健康な笑いというのは、文学において尊重されるべきものだと思うが、それはどこまでも自然でなくてはいけない。自然にしか生れないものだろう。 笑わせようとしても、本当におかしくなければ誰も笑うものではない。無理強いは出来ない。 そうして、笑いの中にも、質のいい笑いとそうでないものとがある。 人が笑っているのを見て、おかしくなる時もあれば、反対に索漠とした気持になる時もある。何らかの意味でそれが人生の機微にふれたものでなくてはいけないだろうし、言葉の選択という点できびしさが無くてはいけないだろう。何よりも新鮮でなくてはいけないだろう。 いいかたを変えれば、物真似でない、その人だけしか持っていないものでなくては、つまらないだろう。」 庄野潤三『庭の山の木』より「子供の本と私」p233より 江國香織さん、やはり的を得ています! これが庄野文学の真髄なのだろうと思いました。 それではこれから、庄野潤三さんの本をたくさん読んで、たくさん笑うとします。 - 1900年1月1日
毎日のことこと高山なおみ読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)神戸新聞に連載されていたエッセイがまとまっただけでなく、それに写真やイラストもこんもり加わっています。 ページを開くたび、高山さんのゆったりした暮らしにひきこまれていきます。 ミルクパンの焦げを重曹で取ったあと、ふわふわの炒り卵を作る。窓辺で納豆をかき混ぜながら、雪を見て小鳥の鳴き声を聞き、納豆は、卵白いりでふわふわ、ツルッといただく。冷蔵庫が届いて片付けが終わったあと、ゆで卵のキーマカレーをみんなでぺろり。…読むレシピがたくさんあり、作ってみたくなりますし、高山さんの文章の柔らかさに気持ちも緩み、なんだかほっとしました。 今日は涼しくなったので、お店のドアを開けて、楠並木の葉音をきいています。あれ、なんだかしっとりした文章…高山さんに感化されてしまったようです。 - 1900年1月1日
つるとはな ミニ?つるとはな読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)こちら、雑誌『つるとはな』5号からなんと7年振り! 待ちに待ちまして、装いを新たに登場しました! おかえりなさーい! 今回も80代90代と、人生の先輩方が出ています。巻頭は100歳のおばあちゃんのお話! 「夕方寂しくなるときもあるのよ。そんなときは、こんなことでくじけちゃダメよと、自分で自分を励ますの。そうすると心がすうっと軽くなるの」p16 つるとはなを読んでいると、名言だらけで、心を鷲掴みにされます。 人生の先輩に聞く、と表紙に書いてあるように、つるとはなは、たくさんの人生の話と生きるヒントがそこかしこにあります。 そして、その文章とともに輝いているのは、大好きな写真家さんたちによる写真の数々!今回はA5サイズと小さくなりましたが、なんのその、写真もどーんと見開きがあったり、デザインも最高で、とても見やすいのです。 実はわたしは、つるとはなにて何度か撮影させてもらったことがあります。 そのときに感じたのは、取材対象への飽くなき好奇心と気配りだらけの優しい愛情です。よいものを作りたい!もうそれが全面に溢れ出ていて、わたしはその熱量を追いかけるのに必死でした。そして、清々しいほど取材を楽しんでるなあ!と、実感したのです。 だから、写真の中の人たちは、こんなにすてきな笑顔なんだなあ、と思います。 本当に、いい写真だなあ…。 是非、すてきな人生の先輩たちの笑顔を見に来てください。 つられて笑っちゃいますから。 - 1900年1月1日
新しい恋愛高瀬隼子読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)高瀬さんは『おいしいごはんが食べられますように』で芥川賞受賞されています。 なんとなくもやっとするけど、気にしないふりをしてスルーしていることに、目を逸らさず物語にしてしまう高瀬さん。 『新しい恋愛』も、読んでいると、わたしの中にある偏見を剥き出しにされて、普通に共感して読んでたはずなのに、あれれ?なんだかおかしい…わたし考え方まずかったかも…と頭の中がグルグル。これは、まさに新しい読書体験。ネタバレになってしまうから、説明がとても難しい。人間関係、時代、環境から生まれる歪み、その難しいところを本当に見事に物語にされています。 どのお話の主人公も、おそらくわたしよりもひとまわりふたまわり下の世代なんだろうけれど、わたしの世代の感覚とも共有できたりもするし、あれ、これいつの時代?昭和?令和?未来?、となんだかクラクラ。 おそらく、日本の恋愛の価値観が問われているのだと思います。新しく変化していこうよ、と。 相手を思いやりながら、ゆるやかに変化しながら新しい恋愛できたらいいなあ。本屋はそんな新しい恋愛が潜んでいると思っています。なぜなら、本屋にはそのヒントになる本がたくさんあるから。 - 1900年1月1日
読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)5号のテーマは、「料理がしんどい」。いろんな方が、料理をすることのめんどくささや、そもそも料理すること、つくることってなんだろう、ということについて話しています。 私たちの現実(と理想)という特集の座談会の中で、 「料理家のコウケンテツさんの家は、朝食はセルフサービスだって雑誌に書いてあった。「僕は料理人だけど、家族の食事を毎食作るのは辛いです」と言っていて、前日の残りとか、みんなが好きなものを食べて「行ってきまーす」と出かけて行く。」p19-20(「料理がしんどい」より) というお話を読んだ時、爽やかに楽しそうに料理をするコウケンテツさんでさえ、毎食作るのは辛いと知り、少し安堵しました。そして、朝食のセルフサービスというアイデアは、無意識に他者に委ねてしまう日々の家事に対し、各々の自発性を促し、自立的な生活を過ごすのに効果的ではないかな、と思いました。 しんどさを緩和するいろんなアイデアがある中、スープ作家の有賀薫さんのインタビューは、冷静沈着で、料理をする上での的確なアドバイスがあり、必見です。 「日々料理をする人たちには、「受け身じゃない方がいいよ」と伝えたいですね。いま、インターネットをはじめメディアには情報があふれています。でも情報って、大勢の人に受け入れてもらえるように「標準化」されているもの。…略…自分が食に何を求めているのか、何のために料理するのかをいったん掘り下げて考えること。先ほども言いましたが、メディアの情報には「あなたへの答え」はありませんから。」p23-24(「料理はもっと自由であっていい」より) わたしはなんで、めんどくさいなあと思いながらも、料理をしたいんだろう。好き嫌い、節約、体調管理、ダイエット、環境問題、etc…。 料理をしている時、台所にいて、食材を触ったり、切ったり、煮たり、炒めたり、いろんな音がして、匂いがして、料理の時間が生まれて…、それが今のわたしの暮らしを実感するひとつの方法だからかもしれません。 実感することが希薄な今の時代、料理は今のわたしの暮らす世界を表すシンボルになっている…。だとしたら、料理をするなら、その時その時のわたしに合う料理をしたらいいのではないか。 外食、コンビニ飯、自炊…、そのときのわたしに合うしんどくない料理が、きっとわたしの料理なのかも。 「要するに「正解はない」ってことなのかな。料理にも生き方にも、 万人に当てはまる正解なんてない。だからこそ、一人ひとりの「ここ(胸)にあるもの」を大事にしようよっていう・・・・・・。うーん、ここに本質がある気がしますね。」p51 (「つくるって何だろう?」より) わたしはどんな料理がしたいんだろう、それは、どんな暮らしがしたいんだろう、に繋がっていきます。 料理がしんどいってことは、きっと暮らしに対する考え方が少し辛くなっているのかも…。 楽しい料理になるように、楽しい暮らしに繋がるように、今日は鍋にします。 材料を切るだけだし、洗い物も楽ちんですしね。 追伸…撮影担当の長野陽一さんは、わたしの憧れの写真家さん。 KU:NELの頃(20年前…)から大好きで、HeHeさんから出ている『長野陽一の美味しいポートレート』は宝物。 こんな写真が撮りたいと、長野さんの真似ばかりしています。 長野さんと写真の話をしたときに、料理の写真を撮るときは、人を撮るポートレートのように撮影していることを教えていただきました。だから、料理写真だけれども、その人の空気や生活感が満ちているのでしょうね。 長野さんの料理写真は、それまでの料理写真の常識を覆した、新しいものでした。それからは、長野さんみたいな写真が世の中にたくさん溢れかえりました。今もその影響は続いています。わたしも大いに影響を受けています。 - 1900年1月1日
読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)こちらは、歌人でエッセイスト、国語の非常勤講師もされている堀静香さんのエッセイと日記です。 わかりあいたいけど、わかりあえない。わからないって思う前に、あなたのことをちゃんとわかろうとしたんだろうか。家族や友人、知人、いろんな人間関係で起こるわかりあえないもやもやを、自分のことさえも疑いながら熟考されているのがなんとも面白いです。 わかりますよ、そのもやもや。エッセイではそのもやもやがすーっと消えていくのが心地いい…。 堀さんにわきおこる日々の葛藤は、日記の中に表れてきます。 「目の前の原稿をちまちま直しながら、これからも書きつづけるのか、書いていけるのかと考えると途方もない気持ちになる。それでまた目の前の文章に目を落とす。つまらないのではないか。全然だめなのではないか。褒めてもらえないと前に進めないくらいならとっくにだめになっているはずで、ほんとうにはちゃんと、自分を信じてやってきた。全然だめなんかじゃない、 と思いたい。でもわからない。誰がわたしの書くものなど求めているというのだろう。卑屈さはどんどん膨らんでいく。」p55 わかりますよ…膨らんでいくタイプのもやもやですね。堀さんでさえこんな悩みを持つなんて。 この「わからない」は、おそらくずっとわからないままなのかも…。それに耐え忍び受け入れる能力のことを、ネガティブケイパビリティといいます。 詩人のジョン・キーツが、シェイクスピアの作品にはネガティブケイパビリティが備わっている、と提唱し、その概念が生まれました。シェイクスピアに出てくる人物たちを思うと…悩ましさが増します…。シェイクスピアの作品には、わかりあえない人たちばかりでてきて、答えのないもやもやがたくさん発生します。それは世界中の人に読まれ続け、様々な人たちによって表現されています。それだけネガティブケイパビリティは、生きる上で必要とされる根源的なものであり、想像力を養うエネルギーの元なのだと思います。 堀さんの本には、その力をどう代謝していけばいいか、勉強になることがいっぱい詰まっています。 読み終わっても、わからないままのわたしも、もちろん良し。 - 1900年1月1日
わたしの中の黒い感情ソルレダ,桑畑優香読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)ソルレダさんは、韓国で活動されている作家・イラストレーターさんで、カウンセリング心理学も学ばれています。ソルレダさんの本はBTSのJ-HOPEさんも愛読しているのだとか。 こちらの本は、自分の中にある「黒い感情」を言語化し、心理学の知識とともに説明してあるので、捉えにくい感情を理解しやすく、どう対処していけばいいか、ケアに繋げていけばいいか、ヒントを得ることができます。 たとえば、「悩み」について。 「悩みには、3つの特徴がある。 1. 悩みは、まだ実行していないことにたいする心配と期待から生まれる 2. 悩みは、選択したことの結果 (得失)がはっきり しないために起きる 3.悩みは、「善か悪か」「白か黒か」のように二元論 的な基準で人生を捉える、柔軟性を欠いた視点に よってもたらされる」p69 悩みが生まれる仕組みを知ると、わたしはまだ起きてない物事を二元論的に単純化しようとして0か100かで考えてたのかも…と気付かされます。 わたしの悩みを作ってみましょう。 コーヒー淹れるのをもっと上手くなりたい、でもなかなか淹れられない(1)…、美味しいの基準は数値化が難しいから結果ははっきりしないし(2)、わたしのコーヒーは百点満点の絶品なわけでも激不味いコーヒーでもない(3)…。 こちらの本を利用して、悩みに対処していきます。 わたしに質問をします。 なんで絶品コーヒーを作りたいのか?なぜ絶品コーヒーを作らなければならないのか?いや、わたしは絶品コーヒーを作りたいわけではないぞ。そばにいる人たちと、ほっと一息つきながらコーヒーを飲む時間を過ごしたいから、コーヒーを淹れたいなあと思っていたんだぞ。あ、そうか。絶品コーヒーを目指すことだけがただひとつの真理であるかのように考えること自体が、幻想なのか…。絶品コーヒーじゃなくとも、家族が淹れてくれたなんだかほっとするコーヒーみたいなのでもいいんじゃないか。わたしは家族コーヒーを目指そう! 「必ずしも正解を見つけようとするのではなく、自分の考えがはっきりし、質問自体が光なのだと思えるようになれば、心が明るくなり、悩みも解決するだろう。もちろん、悩みながらも結局選ばなかったことについては、後悔が残るかもしれない。しかし、その感情を受け入れれば、わたしたちは悩みの沼から這い出ることができるのだ。」p71 わたしは家族コーヒーという新たな光を見つけて、心が明るくなりました。悩んでいた時より、コーヒーを淹れようとする気持ちがわくわくしてくるのを感じます。 悩みは、新しい目標を見つけることができる装置なのかもしれないですね。 「黒い感情」には第1章だけでも、 無視、不安、憎しみ、強迫、もどかしい、苦痛、自責、恋しい、悩み、疲れ、失望、しんどい とあり、第4章まであります。 その日の感情と向き合って、こちらの本を使って自分の中の黒い感情を探してみるのもいかがでしょう? さて、黒い感情が和らいだところで、コーヒーでも淹れましょう。 - 1900年1月1日
俺の文章修行町田康読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)町田康さんの文章は爽快です。関西弁がたまに出る語り口調で、自由に澱みなく書かれているので、いつも読んでいてスカッとします。素直な人なんだろうなと思います。とにかくクソ・屑・カスという文字をよく目にしますが、それがとてもロックでかっこいいのです。 「形式から生み出される内容、偽の正義から生み出される内容は、心の錦=文章を初めに動かす初動の力= motif に非ず。心の錦とは、実は最初は糸クズ・ゴミカスのように風に揺らぐ頼りないもので、その揺らぎこそが、内実とも申すべき俺らの心の錦なんですわ。ということを右に申しあげた。その上で、だけど俺らは気がつかぬうちにそれを看過してしまう。なぜかと言うと、内実がゴミカスであることが辛いからで、だから形式とクソ正義から出発した文章を読んで感泣し、自分もそんなクソ文章を書いて豚のように自足しつつも、個人の権利の拡張だけを目指して生き、いざ死ぬという段になって、「しまった。 もうちょっと増しな生き方をすればよかった」と後悔の臍を噛んだり、いやさ、それどこか見苦しく泣き騒ぎ、周囲の人に迷惑を掛けるのである。」p186 そうなんです!そんな心の錦から外れたクソ正義文章をつい書いてしまい恥ずかしい思いをしています。そうならないための方法として、町田さんは「デフォルトの善悪」と「雑な感慨ホルダ」を克服しようと説いています。こちらは是非、本を読んで修行していただきたいです。 「俺らの一生が一瞬の連鎖、偶然の連鎖であるのと同じように文章の内容は一瞬で決まる。 」p239 「喋り口調は、文にそのような「今」を齎(もたら)す効能がある。書いている時間≒作中の時間≒生きている時間のようになり、その瞬間、読み書き表裏一体、裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表裏表、と、斬りかかってくるしょうじない語彙と干戈(かんか)を交えつつ、文の偽善、文の欺瞞、技巧の顔廃から脱する契機となるかも知れぬのである。」p249 これはもう刹那的な仏僧の修行と変わりないんじゃないか・・・?と思うような文章修行ですが、価値観がぐわっと揺らぐ怖さと気持ちよさがあります。 文章を書いていると、瞬間瞬間考えていることと今まさに書いている自分との乖離を感じる時があります。その一瞬の連鎖が常に心の錦を持ち続けれるかの真剣勝負、そうなると、どう生きてきたんだ、お前はどんな人間なんだ、という問いを常に与えられているに等しく、この本を読んだわたしは、さてどうするんだお前はと、町田康に冷ややかに見られている・・・という気持ちになってきます。そうです、この本を読むと、心の錦町田師匠が誕生してしまうのです。 師匠、わたしはこれからもクソみたいな文章を書いてしまいそうですが、その揺らぎをスルーせず、刹那を感じながら、文章修行に励みたいと思います! - 1900年1月1日
僕には鳥の言葉がわかる鈴木俊貴読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)鈴木さんは東京大学准教授の動物言語学者。動物言語学は鈴木さんが創設された学問です。 大学生の時にシジュウカラ、コガラ、ヤマガラといった混群と呼ばれる鳥たちが、「ディーディーディー」という鳴き声で集まってヒマワリの種を回収している場面に遭遇し、鳥たちが言語を使っていることに気づきます。こちらの本は、その鳥たちがほんとうに言語を使っているのかの観察と実験、実証、そして鈴木さんと鳥たちとの間で起こったいろんな体験の詰まったエッセイ本です。 鈴木さんのご実家の庭には巣箱があり、毎年春になるとシジュウカラが繁殖のために使いにきて、ご両親はその間手厚く見守っているそうです。巣箱には監視カメラが付いていて、鈴木さんのXの投稿で子育て中のシジュウカラの写真を見ることができます。 「うちの両親にはシジュウカラ語を教えてあるので、かれらの警戒声をたよりにネコに気づくことが多い。「ピーツピ、だからネコが来てる! お父さん追い払って!」と母が言うと、父はあわてて庭に出ていく。シジュウカラ語を理解する母と、ネコを追い払う父。素晴らしい連携プレーだ。」p143-144 なんと微笑ましい・・・。ちなみにピーツピはシジュウカラ語で「警戒!」という意味だそうです。 こちらの本には特別付録でシジュウカラの鳴き声が聞けるQRコードが載っています。かわいい鳴き声・・・。早速キママブックスの外に出て、楠並木に向かって鳴き声を流してみましたが、車がブンブン通っていくだけでした。 このシジュウカラ語に文法が存在することを証明するために、鈴木さんが編み出したのは、大ファンであるルー大柴のルー語(!)を応用することでした。これが何とも面白い!こう考えて組み立てていくのかあ・・と、頭を柔らかーくしてもらった気分にもなり楽しかったです。こちらの章も是非とも読んでほしいです。 鈴木さん、まさに愛すべき天才です。ファンになりました。Xもすぐにフォローしました。たぶん、ツイッター🐥がXになった時、鈴木さんは悲しかっただろうなあ・・・。 - 1900年1月1日
ほんとうのことを書く練習土門蘭読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)土門蘭さんの『ほんとうのことを書く練習』を読んで、 “ほんとう”、と平仮名で書いてるのはなんでだろう、と思いながら読んでいたので、吉本隆明の『ほんとうの考え•うその考え』を読み直しました。 吉本隆明の”ほんとう”は、宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のブルカニロ博士の言葉「けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。」からきています。吉本隆明は、ここから宮沢賢治の思想を深めていきます。 『銀河鉄道の夜』では、「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」と、ジョバンニがカムパネルラにたずねる場面があります。”ほんとうのさいわい”をおもうとき、わたしは宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」を思い出します。 “ほんとう”という言葉には、ぜんたいの真理のようなものが含まれてくるような、おおきなものを感じます。 あらためて土門蘭さんの本のことを振り返ると、ああ、たしかに、『ほんとうのことを書く練習』は、世界ぜんたいのこうふくをもとめているようだ、と感じました。 こちらの本をもう一度読んで、わたしのほんとうのこうふくのことを書きたいな、と思います。 - 1900年1月1日
小さい午餐小山田浩子読み終わった@ KIMAMA BOOKS(キママブックス)午餐は、ごさん、と読み、お昼ご飯のことです。こちら、小山田さんはじめての食エッセイです。 本の裏表紙に、居酒屋の日替わり定食、喫茶店の天丼、とんかつ店のロース定食、と美味しそうなメニューがずらり並んであります。広島在住の小山田さんならではの、呉のクリームパイ、広島のお好み焼きなんかもあり、なかなかこってりなラインナップです。 こちら、文章もなかなかこってりな印象があるのですが、それはおそらく、小山田節の改行しないぶっ続け文章のせいかしらと思っています。 「回転寿司を食べてきた。1人で行くのは初めてだ。回転寿司というのは、寿司がレーンを回っていたり注文した寿司が自分の真ん前で止まったりするというギミックにどうやっても遊戯性というか、面白がらそうとしている感を受け取ってしまう。私は保育園に子供を預けているのだが、そういう身で、例えば定食や麺類を食べていたらランチね、という風に受けとられると思うのだが、それが回転寿司だと、なんというかふざけんじゃねえぞというような、遊んでやがるというかそういう視線を受けるのではないか。つまりジャンルとしては回転寿司は定食屋よりはカラオケとか遊園地に近いのではないか・・・・・でも、今日は行こう行ってやる行くんだと思って行ってきた。いろいろなことがうまくいっていなかった。納期、焦り、不義理、書いても書いてもピンとこない。たった 今私以外の作家は全員もりもり仕事をしているような気がする。仕事以外もさえないことが続いていた。」p121 …とまあ、ずっと改行もなく、さらに続いて行くのですが、その文章には、なぜか貪るように読んでしまう不思議な魅力があるのです。 こうも途切れず文章を読んでいると、段々落語を聞いているような、映像を見させられているような気持ちになります。 これがなんとも中毒性のある読書体験なのです。 小山田さんが、回転寿司について書くと、回転寿司が運ばれてくるのも文学になるのか…ファミレスに家族と行く話も、こんなに膨らませて深みが出てきてしまうのか…と、感動。 普段ぼーっとしてろくに見ようともしていないことがなんともったいないことであるか…! よくあるささやかなお昼ご飯だけど、ほんとは、そこには平和という幸せな体験があることを、小さい午餐は教えてくれています。 小さい午餐、なぜ、小さいのか、も考えてみたら、興味深いですよね。 今日のお昼のチキンラーメンは、小さい午餐な気がするな。ちゃんと自分なりにいろんなことを感じながらチキンラーメンのことを思い返すことにします。
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