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ワット
@watt
  • 2025年10月22日
    世界はさわらないとわからない(1008;1008)
    瞽女や琵琶法師が活躍していた時代には、触る文化が一般的だった。これが、近代化の中で資格が優先する文化が形づくられていった。その先兵はたとえば、博物館である。大阪・国立民族学博物館に在籍する全盲の著者は、ユニバーサルミュージアムを提唱し、博物館からの、触文化の再興を考えている。視覚障害者と晴眼者という分類に対しても異議を申し立て、触常者と見常者という分け方を提案している。  みんぱくは、文化相対主義を基本にしていて、その流れにも沿うものだ。「合理的配慮」「誰ひとり取り残さない」という発想からは、主語が欠けていて、マジョリティの優位性が透けて見える。今こそ日本ライトハウス、点字毎日以降の視覚障害者と近代を問い直すべきと、鼻息が荒い著者。オヤジギャグ的な連想が多いのは、同音異義語が多い点字ユーザーのあるあるかも。あと、短文の最後のキメがいちいちスローガンっぽくなっている不思議。  障害者のアクセシビリティ確保や鑑賞サポートの活動は、もちろんやった方がいい。だけど、個々人に対応できるよう精緻化すればするほど「障害者」として話がくくれなくなる。結果としては、差別というと言葉は厳しいけれど、分断に与するようになってしまう気もする。背景にある文化の、深い理解がいるのだろう。
  • 2025年10月15日
    増補 股間若衆
    銅像のちんちんの部分はどうなっているのかを延々と探求した奇書。筑摩書房のオヤジ系ラインナップに連なるところだけれど、親本は新潮社で、初出の芸術新潮掲載時は「日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究」とのサブタイトルがついていた。美学で正面から話が進められそうなものを、微妙にずらして考える。その作品よりも、作品によって起こった反応や影響に焦点を置くことによって、社会におけるちんちん、というか、人々の羞恥の感覚、猥褻の捉え方、表現におけるタブーのあり方、ジェンダーに関する問題が次々にあぶり出されていく。  絵画などの平面作品と違い背景が描かれない分、タイトルとポーズで作品解釈を行う彫刻の世界。一つ一つの裸像のパーツは、とても重大だ。そんな中でふんわりとしか表現されていない作品のちんちん部分のことを、著者は「曖昧模っ糊り」と名付ける。丸出しか、葉っぱか、曖昧模っ糊りか。なぜ、曖昧模っ糊りなのか。なぜ、なぜ、どうして。彫刻家に話を当てることはしない。その作品との距離感が快い。
  • 2025年10月8日
    アセクシュアル アロマンティック入門 性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち
    アセクシュアルは、性的惹かれがない人。アロマンティックは、恋愛感情を持たない人。そのほか、いわゆる性的少数者にもさまざまな定義の可能性があり、論争がある。よっぽど友人が多ければ、山田さんはコレかも、佐藤さんはアレかもと整理がつくかもしれないけど、全人口の1%程度を問題にしているから、現実的には難しい。もちろん著者は、性的少数者の分類学をやりたいわけでは全くない。もともと二次元創作モノに関心があった著者の関心は、異性愛が正常であり一般的であるという、現在の社会を問い直すことに主眼がある。  つまり、『私たちはここにいる、私たちを見よ』ではなく『私たちはこの場のどこかにいる(かもしれない)よ』という、見えないマイノリティに対するまなざしを拡大するための実践である。暮らしの中にあるささやかな行動や言動の中にある、悪気のないマイルドな表現の積み重ねで、文化が、私が、かたちづくられている。だからこそ、痛くて、切実なのだ。
  • 2025年10月1日
    新しいリベラル
    新しいリベラル
    リベラルというものがふわっとして形のないものに見えるけれど、社会的投資を通じた福祉国家づくりを目指す考え方ということで、あるカタマリになりうるじゃないか、ということを著者らは主張する。エスピン=アンデルセンの論の紹介に続いて、ベラメンディの考えを整理している。大きな政府・小さな政府という軸のほかに、投資か消費かという軸を示していて、これは興味深いところだ。私は、投資という言葉が大嫌いだけれど。  全体を見ると、結果的に、現状に流されている。本書前半の旧リベラル、革新、戦後民主主義、平和主義の再考というか批判なんて部分は、さすがに浅すぎる。従軍慰安婦問題で謝り続けるか否か、朝日新聞はどうか、だとかそんな視点で検討するのはくだらない。結果として、反共的に吠えているだけにみえる。江田ビジョンの今日的問い直しなんて、いまの視点で検討しても無意味だろう。もっと地方自治体レベルというか、生活に近い視点で考え方を整理したほうがいいだろう。
  • 2025年9月24日
    日本のバス問題
    バスをはじめとした地域交通が、許認可という点から徹底的に行政に縛られていた長い長い歴史があり、それは現在にも通じている。曲がり角を曲がり切れないまま、地域の衰退が深刻化していってしまったわけだ。これからの地域交通としてのバスを考えたら、ビジネスとしての存続はほぼ不可能で、行政サービスの一環になるだろうというのが著者の見立てで、地域公共交通計画を官民でもっと議論する土壌をつくる必要がある。  ハッとしたのは、民間バス事業者は道路の保守整備にはカネを出していない、という指摘だ。バスレーンの設置とか、連結バスの整備といった方法では間に合わなくて、もっと根本的な国のインフラの考え方の整理が先に来そうな気がする。本書ではほとんど触れられていないけど、基本的人権としての移動権について、考えなくては。
  • 2025年9月17日
    反共と愛国
    独特の産別くささというものがある。現在の国民民主党に限らず、立憲民主党の連合推薦候補がまとう独特な感じ。保守と呼ぶには尖りすぎていて、反共とまとめるにはやや時代がかっている。その原点を民社党に見て、1960年の結党前後から、94年の解党とその後までを追いかけた労作。  民社党の結党時は、戦前の労働運動(総同盟)、産業報国運動、労農運動、共産党転向組の反共勢力が集まり、必ずしも一枚岩ではないスタートだった。もともとのイデオロギーである「民主社会主義」で「革新勢力」という自認も、広く世に受け入れられず、関係者内でも議論が詰められなかったという。しかしこの勢力が、草の根保守の足場を作ってきたという重い事実がある。  タレント議員を取り込んだ選挙戦略や、勝共連合との関係、とりわけ松下正寿の思想などより踏み込んで知りたかった。
  • 2025年9月10日
    物語化批判の哲学 〈わたしの人生〉を遊びなおすために
    なんでもストーリーにする圧力が強すぎて、結果として行き詰ってしまう。もっと出鱈目で、破綻があればいいじゃない。という当たり前のことを、狙い定めて主張しなければならないのは嫌な世の中だと思う。まあそうよね。精緻化の技術はどんどん進み、解釈しきれないのんべんだらりとした日々は、無価値を超えて不存在扱いになるかもしれぬ。  前半の「歴史的語りは、常に過去の再制作である」という議論は面白かった。歴史的語りに比べて自己語りが危険な点は、批判や資料、方法論をもたないから生じる「改訂排除性」と、必然性だったり伏線を見つけ出そうとすることによる「目的閉塞性」である、と。はみ出る、破綻する、だけどある時間止まらずに流れたその人の1コの生。これを物語に回収してしまうのは、うーん確かにもったいない。
  • 2025年9月3日
    辻征夫詩集
    「これで今夜は/タバコなしですごさなければならない/タバコの夢を見るかな/などと思いながら/同時に/いいようのない苦しみで/別れた/恋人のことを考えていた//タバコと/パチンコ屋と/恋と//卑俗と/かぎりなく/純なものと//となりあい/まざりあって/ふきあげる高貴な現実//それが/ぼくのうたでありたい/ぼくの詩でありたい/などと考えていた」  このあいだ出た会合で、折々のうた風に、好きな詩を暗唱し紹介せよと進行役に言われた。しかし、暗唱できなかった。暗唱がどういうことなのか分からずに混乱したのだ。「かっぱらっぱかっぱらった/とってちってた」みたいなことを言えばいいと思ったけど、辻征夫にそんな詩はない。落ち葉のことを、落ち葉といっているような詩ばかりだ。そして、それが世界の本質の一つだと伝えるような詩だ。悔しく、のろのろ歩いて帰ってきた。
  • 2025年8月27日
    ファンたちの市民社会
    ファンとは、エンタテインメントを消費する人たちのこと。めちゃくちゃ資本主義だ。それなのに、ファン研究を市民社会と結びつけて論じようという発想に驚いた。特定の作品の解釈にオタク的に沈潜するのではなく、界隈を見渡すことで見える、ある種の眺望は気持ちいいものだ。極個人的な欲望を深めていけば、そこには自然と社会が立ち現れるという信念が著者にはあるのだろう。ガチ甲冑合戦の成立の記録は本当に興味深かった。  章末に挟まれるブックガイドが充実していて、これらの作品の議論をもとに本文を整理していったのだと思われる。そのブックガイドから気になった作品をいくつか。「贈与をめぐる冒険―新しい社会をつくるには」岩野卓司、ヘウレーカ。「表現の文化研究」鶴見俊輔・フォークソング運動・大阪万博」粟谷佳司、新曜社。「「地域市民演劇」の現在─芸術と社会の新しい結びつき」日比野啓ほか、森話社。「反日―東アジアにおける感情の政治」レオ・チンほか、人文書院。
  • 2025年8月20日
    世界は団地でできている 映画のなかの集合住宅70年史
    世界は団地でできている 映画のなかの集合住宅70年史
    団地の形成の歴史という以上に、世の中の団地のイメージがどのように変遷していったのかを、映画を通して確認していく試み。現代的な集合住宅としてもてはやされた時代があり、画一的で文化的に貧しい住居と考えられた時期もある。最近は、密接なコミュニティが復活していて暮らしやすいところだと再発見されている。一方で、低所得者や多国籍ルーツの人たちが集住している現実もある。団地建設以前の歴史は、バクッと「地霊」的な感じで捉えている。  横にひろがる街区のあり方と、まちのつくりを考えていくのは面白い。少し前にも、東京の東久留米にある滝山団地から、イトーヨーカドー、レストラン・ファミール、フードコート・ポッポの話題で仲間と盛り上がった。いま自明になっている地域のイメージは、数十年後どう変化しているのだろう。タワーマンションもいずれ意味が変容していくのだろう。うんと福祉っぽくなってるかな。
  • 2025年8月13日
    日本の動物政策
    動物といっても、法制上は仕切られている。愛玩動物、野生動物、実験動物、動物園動物、畜産動物の五種類の動物観が、それぞれの論理で政策化されている。というより、時代の変化に応じて場当たり的に法律が作られているため、所管もバラバラで、対応すべき人材も整理されていない。たとえば動物愛護の観点である政策に反対している人も、全体像が見えないから、エモーショナルな対応になりがちである。冷静な議論が成り立たないと感じた関係者は、情報公開に消極的になりがちで、結果として悪循環になる。だから全体像が必要だ。政策学者が書いた動物政策の現況、その中身はバラバラであるといわざるを得ない。  あえていえば自分は、動物園が最も自分に近しいけれど、博物館法の規定というより、実態は都市公園法に拠っているところも多い。また、国立動物園が存在しないことで、各地域の動物園や水族館が連携を取れないままになっている側面も大きいという。  また、獣医の最大の就職先になっているのが自治体というのにも驚いた。野犬管理から始まった公衆衛生や、屠場関連の食品安全の観点から、獣医という人材が要請されるが、こうした人の心理的負担は重いようだ。うーん。知らなかったな、動物のこと。
  • 2025年8月6日
    NPO支援組織の生成と発展
    「まちづくり情報センターかながわ」といえば、泣く子も黙る最もアクティブなNPOである、という時代を私は直接的には知らない。1988年の創設から、2023年の解散まで、特に初期に焦点をあてて歴史を追った著作だ。先駆的な市民活動支援を行っていた団体は各地にノウハウ提供を行っていったが、各地の自治体が公的なNPO支援センターを立てる中で、独自性や資金源を奪われて衰退していくさまが見て取れる。アリスセンターは結果的に、公立のNPO支援センター運営の流れに一度も乗らなかった。だから、つぶれたともいえる。組織維持の観点では失敗だったけれど、運動の意義という点から問題を考えたいものだ。  設立メンバーの一人・緒方昭義という人が、建築家で横浜の竹山団地を設計した人だということは初めて知った。水上に団地が立っていて、夏になるとそこで花火が打ち上ったりする。あの団地好きなんだよな。学生運動(新左翼系)、生協運動、ローカルパーティーの流れなどと密接に結びついてできていた、市民運動の時代はダイナミックで面白かった。いまだったら、どんな広げ方があるんだろうか。
  • 2025年7月30日
    目の見えない白鳥さんとアートを見にいく
    話の出発点は、ミトゲイ。水戸芸術館現代美術センターの教育普及担当学芸員が、視覚障害(全盲)の白鳥さんの鑑賞アテンドを引き受けるところから始まる。平面作品の鑑賞補助が、補助者側の作品理解につながるという部分から、視覚優位な世界への懐疑、人々が社会だと思っているもの全体への不確かさの確認、障害者やマイノリティへのまなざしへと考えは深まっていく。話が拡散しそうだけど、目の前で生きて暮らしている白鳥さんの存在が、重しになっている。  美術鑑賞というけれど、いまこの時代を生きている人同士が、茫洋としたいまを生きていることを、協働で再確認する営みなのだろう。それぞれの美術館の教育普及担当が、それだけの解像度を持ってコトにあたれているのだろうか。芸術が社会の中でどれくらい大事にされているのかも、気になるところだ。
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