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(nigiwai)
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@nigiwaiwayway
  • 2026年9月10日
    悪いことばの力
    ネットなどで見られる誹謗中傷や謂れのない悪口を言う人について知りたくて購入。 「ことばは行為である」と言う前提をもとに、褒め、自慢、自虐、悪口の関係性という軸を用い、それらの発言を言う人、言われる人にどういった力が働いているのか、影響を与えるかなどを紐解いていく一冊。 個人的な話になるのだけど、僕が小学生くらいの頃に両親が離婚し、母子家庭で育った。 母が仕事を頑張ってくれていたのは目に見えて分かっていたし、たくさんの愛情を注いでくれていたことも感じていたので、ありがたいことに、父親の不在が気にならないくらいには幸せな家庭だったといえるだろう。 中学に上がった時、現代国語の授業にて例の「〇〇の気持ちを答えなさい」といった問題が出された。その「〇〇」の中には「父親」と書かれており、僕の家庭事情を知っているクラスメイト数名からは「お前父親いないから気持ちわかんねぇじゃん!」というイジりをされたのだった。 先に言っておくけれど、僕は特段このイジりをなんとも思っていなかった。事実ではあるし、父の不在を気にする必要のない環境を母に作ってもらっていたし、すでに離婚してから7年近く経っていたため、気にするまでもないことだった。 問題はそのあとである。 その日、家に帰るとクラスメイトの一人からメールが来ていたのである。そこにはこう書かれていた。 「あなたはあの時のイジり辛くなかったの?」 詳しく話を聞いていくうちに、その子の家は現在進行形で離婚の話が進んでいるということが分かり、そんな中で僕がイジられていたことを案じてくれたようだったし、これは憶測でしかないけれど、本人も不安になったのだと思う。 僕はその時、初めて怒りなのか、自分のせいではないけれど取り返しのつかなさというか、そういったもの感じた。 クラスメイトたちは僕のキャラや背景を知った上で、父親がいないイジりをしたのだけれど、それを聞いてよく思わなかった、その子と同じように悲しい気持ちになった人がいてもおかしくはなかったのである。 僕自身、自分がイジられていることで誰かが傷ついているかもしれないなんて思いにもよらなかった。 きっと、人は相手を傷つけずに生きることは不可能だ。仮に、自分がいくら気をつけていたとしても、相手は遠慮なく自分を傷つけてくるし、自分自身も知らず知らずのうちに傷つけてしまう。 この本のあとがきの中に出てくる「ノイラートの船」という例え話があるのだけれど、この船は一度港を出たあとはどんなに大規模な修繕が必要な出来事に見舞われようと、海面に浮かんだ流木や部品を再利用して徐々に修理を行いながら旅を続けるらしい。 そのあと筆者は「えんえんと小規模修繕を繰り返すのが人生です」と書いていた。 修繕、アップデート。 この社会で自分のことばが、相手にどんな影響を与えてしまうのか、相手からどんな影響を与えられてしまうのか。それらについて考えさせられる本だった。
    悪いことばの力
  • 2026年9月10日
    週末、森で
    週末、森で
    『すーちゃん』からのハマって読み出した益田ミリさんの作品。 ふと思い立ち田舎育ちを始めた翻訳家の早川さんと、週末にお土産を持って現れる友人たちとの日々を描いた4コマ漫画。 都会での生活に疲れ、心が荒むことが多い友人たちは、早川さんと一緒に森に入り、早川さんのさりげない一言に幾度のなく救われる。 早川さんのすごいところは、田舎での生活を始めたから「救える言葉」をかけることができるようになったわけではなくて、初めから、早川さんは早川さんであるということだ。 森が、早川さんが、都会での生活に疲れた友人たちや、同じような境遇を送っている読者の心を緩やかにほぐしていく。 人が人として生きるために、寄り道をして、ムダを楽しんで、ちょうどいい速さで歩いていくことの大切さを教えてくれる一冊。
    週末、森で
  • 2026年9月9日
    フリースタイル言語学
    めーちゃくちゃ面白かった。 言語学の本を読み漁っているのだけど、今回初めて音声学の専門家の本に当たった。 今の自分の興味の対象とは違っていたのにも関わらず著者である川原繁人さんの文章があまりにも面白く、340というページ数があっという間だった。 メイドさんの名前、ポケモンの名前、プリキュアの名前などのキャッチーな研究テーマに、確固たる情熱を感じる。 僕も川原先生のように「人の役に立てているのか」精神と「しかし、舐めるなよ」の精神を強く持って努力していきたい。 笑って、考えさせられる、いい気持ちになれる本だったなぁ。
    フリースタイル言語学
  • 2026年9月8日
    デジタル社会の歩き方
    SNSを見ていると毎日誰かが怒っている。もしくは「どうでもいい」というフリをしているくせに渦中の投稿を引用して、人を煽るようなことをボソッとポストする人がいる。 「冷笑」や「ドパガキ」みたいな言葉がおもちゃのように扱われているけれど、もっと危機感を持って、向き合いたいと感じた。 SNSではアルゴリズムによって自分に関心のある内容ばかりが流れてきて、一見広い世界を見ているようで、まったく入ってきていない情報や世界の見方も本当はたくさんあるはずだ。 極端な意見がオススメに乗りやすい現在のデジタル社会で、どんな情報を得て、どのように糧にしていくのか、そういうことを考え続けていかないと巨大な波に飲み込まれてしまう。 どうにかこうにか優しい世界にならないものだろうか。 純粋に意見を交換したり、趣味を共有し合ったり、損得勘定を抜きにしたコミュニケーションを取ることができるデジタル社会になることを願いたくなる一冊。 自分にもなんかできることがあるのかな。とか思ったり。
    デジタル社会の歩き方
  • 2026年9月7日
    会話の0.2秒を言語学する
    再読🙏 個人的にちんぷんかんぷんだった『美しい言語学の話』を乗り越えたのでだいぶ頭に入るようになった気がする。 勉強バカみたいに楽しい。 著者の水野さんがこの本のことを「いびつな本」とおっしゃっていて、自分もこれまでことば関連の本を数冊読んでみたけれど、なるほど読めば読むほど圧倒的な学習範囲に驚かされる。 とりあえず以前読んだときには触れなかった、この本に載っている参考文献から言語学の「全体」についての本と、「誤用論」についての本を中心にまた勉強を始めていこうと思う。 難しいけど楽しい読書体験だった。
    会話の0.2秒を言語学する
  • 2026年9月6日
    平成遺産
    平成遺産
    著名人たちによる「平成とはなんだったのか」を語るエッセイ集。 東日本大震災、SMAPの解散、人工知能、ゆるキャラ、自分自身も経験してきた平成が他者の目と思考を通して流れ込んでくる。 読んでた時はそこまで思わなかったけど、今こうやって感想を書こうとすると、なかなかに人選のクセが凄かったように思う。 けれど、どの著者も「押しつけ感」が一切ない。ちょっとある感じの人もいたけれど、でも世間そのものが「押しつけ感」のある時代だったのだと思う。自己責任、個性を持つこと、そういった時代を肌で感じているから、著者の方たちは「もっと無駄があってもいい」「もっと目立たない人にもスポットライトが当たるべき」と書いてくれているのだと思う。 個人的にとても興味深かったのはエッセイ部分よりも、巻末の武田砂鉄さんと最果タヒさんによる対談だった。 “SNSなどでの発言は、主語が曖昧になればなるほど、大きくなればなるほど、網羅できた気分になり、細やかな感情や、感覚的な部分、個人的な部分を切り捨ててしまう。” といったことを話していて、SNSは「一人ひとりが違った意見を自由に発信できる場所」ではなくて、「誰かによって計算し尽くされたバズに共感(感情)を操作される場所」なのではないかと思った。 現代は個性(キャラ)で目立っても潰されるし、ないと個性を磨かなくてはいけない(これはあくまでも個人的に)という圧力を感じてしまうし、なんか大変な時代を生きているんだな、むしろもっといっぱい本を読んで、自分が呼吸しやすい場所を現実にも頭の中にも欲しいなと感じた。
    平成遺産
  • 2026年9月5日
    なんとなく言語学
    なんとなく言語学
    直近読んでいた言語学の本は“生成文法”やら“語用論”やら“メトミニー”やら“フレネミー”(嘘)などの用語が前面的なものが多かったので、それに比べるとこの本はだいぶ毛色が違った。 川添愛さんの『パンチラインの言語学』でも書いてあったけれど、言語学者たちが私たち言語学を学んでいない人と比べて「どういう言葉に引っかかるか」という例がたくさん書かれているし、ちょこちょこ挟まれる小噺も言葉の不思議を感じさせてくれて面白い。 弊害としてはこの本を読んだあと、(今のように)感想を書くのが少し慎重になってしまうところである。 みんな、伝わる日本語で会話しましょう。 みなさん、伝わる日本語で会話しましょう。 この違い、分かりますか?
    なんとなく言語学
  • 2026年9月4日
    美しい言語学のはなし
    簡単に分かりやすく、楽しく書いてくれているんだろうなぁ〜というのは理解できるのに全くもって歯が立たなかった…。ので、とりあえず一通り読んで言語学のノリを掴むことに徹底して読みました。 自分としては語用論と言語行為論、あと『サピエンス全史』の章の中で書かれていた「共通の想像」、「共有された虚構」のお話が興味深かった。 言語で構成された虚構、フィクションが人間を人間たらしめている的なところが面白い。 現代の推し活文化と比較してもっと探求してみたいなと思った。
    美しい言語学のはなし
  • 2026年9月3日
    働きたくないイタチと言葉がわかるロボット 人工知能から考える「人と言葉」
    川添愛先生の著作が大好きなので図書館で借りてきやした🙏 やーーーっぱり難しいっすね。言語学は。 この本は物語仕様になっていて、タイトルの通り働きたくないイタチが「自分たちの代わりになんでもやってくれるロボットがあれば働かなくていいじゃん⭐︎」という思いつきから始まる。 モグラやカメレオン、アリ、フクロウ、オコジョなどなど、他の生き物たちの住処ではいろいろなロボットが開発されていて、少しでも楽をしたいイタチたちはそれぞれの村のロボットのいいとこ取りをしてやろうとするのだけど、これがなかなかうまくいかない。 主人公側に選ばれている動物がイタチである理由もゆくゆく分かるので、気になる方はぜひ読んでほしい。 読み終わって、人がどれだけ高度なコミュニケーションをこなし、相手の気持ちを推し量り、意図を汲もうとしているのかを痛いくらいに感じた。 「あとがき」を読むと機械に言葉を教えるということがどれだけ難しいのか伝わってくるし、これから更に言語学を学びたい自分としても「ひえ〜」と気が遠くなりそうな学問そのものの深淵を感じた。 でもやっぱり、言葉を獲得していくことの不思議、人間が持っている可能性の大きさを知ることができるとても面白い一冊。ありがたや🙏
    働きたくないイタチと言葉がわかるロボット 人工知能から考える「人と言葉」
  • 2026年9月2日
    君たちはなぜ、そんなことしてるのか? 東大准教授のひそやかな動物行動学講義
    読んでいた本の中に載っていておもしろそうだったので読んでみた。次から次に好奇心がチェインしていくから読書はやめられねぇ。 その「好奇心」というのがこの本のキーワードの一つになっていると思う。 動物行動学の本なので、動物個体についての解説ももちろん面白い。 けれど、個人的に楽しめたのは著者が教育実習や講演などの際に質問されたことについての思いを綴るエッセイ的な部分だった。 「知りたい」という欲求は正直なくても死にはしない。 しかし、やっぱりあった方が世の中おもしろくね?と思ってしまう。 「それで食えるのか?」とか「意味はあるのか?」といった問いも生きていく上で、自分を、大切な誰かを守る上で大切なものであることは大前提として、それでもどこかしらで自分の好奇心を裏切ったことを後悔するのであれば、好きなことを精一杯に探究するという期間があってもいいのではないかと、この本を読んでいて思った。 終章、最後の節で、筆者がメジロについて思いを巡らす場面があるのだけど、研究者たちはこうやって世界を見ているんだなと感じることができて少しだけ泣きそうになった。 最後にこの本の謝辞(?)に載っていた言葉を引用して終わろうと思う。 ニーチェいわく「神は死んだ」。 だが、好奇心は滅びない。
    君たちはなぜ、そんなことしてるのか? 東大准教授のひそやかな動物行動学講義
  • 2026年9月1日
    パンチラインの言語学
    言語学?なにそれ美味しいの?というところから手に取った本。 『勇者ヨシヒコ』シリーズや、『チャーリーとチョコレート工場』、『タッチ』などの名台詞をもとに言語学者である川添愛さんの視点から語られる、セリフの秀逸さや、違和感を体感できるのがとても楽しい。 中でも『吼えろペン』シリーズで多用されている「形式と内容のズレ」という話が面白かった。 例えばONE PIECE・ルフィの名台詞「おれは‼︎海賊王になる男だ‼︎」のように「〇〇になる男だ!」の「〇〇」には偉業が入るのがベーシックだ。 けれど『吼えろペン』シリーズでは「おれは(中略)炎尾燃のアシスタントをしている男だ‼︎」や「あえて遊びにいくぞっ‼︎」などに見られる、比較的普通の内容を言っているのに感情が乗っかって「ボケ」になっている。 こういうことに気づける人間でありたいし、こういうボケをできる人間になりたい。なんかかっけぇし。
  • 2026年3月1日
    地方創生大全
    たまには全く知らない分野についての本も読んでみようと思いたち購入してみた。 言うてもね。 私、大学では社会学を学んできたので、人と地域の結びつきとかね、余裕っしょ…なわけなかったです。ごめんなさい。 いや〜正直、頭パンパンなことの方が多い本でした。 しかし、「知らない分野」だからといった理由で購入しただけあって、その中身はとても刺激に満ちていた。 地方創生は、2014年に施行された「まち・ひと・しごと創生法」とともに打ち出された、地方活性化を目指す政策または取り組みを指します。国と地方自治体は現在、各々の人口ビジョンと総合戦略に基づいた地方創生戦略の推進に奔走しています。加えてSDGsと絡めた取り組みも各地で進んでいます。 ジチタイムズ『地方創生とは?』 そもそもなぜ「地方創生」についての本を読もうと思ったかというと、職場の同僚が山梨県で宿坊(参拝者や僧侶がお寺や神社にとまるやつ)体験をしてきたとの話を聞いて、ほとんど忘れてしまったけれど「地域の人とのうんぬんかんぬん」みたいな話が頭の片隅にあったようだ。 結局のところ同僚から聞いた話と、関係があったのか、なかったのかは分からなかったけれど、地方創生、つまり地域活性化についての興味深い話が山盛りに載っていたことは確かである。 特に、新幹線は本当に地域活性化に役立ってきたのか?という問いかけである。 個人的に新幹線はただの移動手段としか思っていなかったのだけれど、表向きの理由としては高速移動による広域交流の促進、駅周辺の再開発、観光誘致を通じて地方創生を支える重要なインフラということになっているらしい。 そのため新幹線を引いたからには、その分、魅力ある土地づくりを本来考えなくてはならない。ちゃんとリピートをしてくれる観光客を生み出さなければならない。 しかし、そこの詰めが甘くなっている部分もあるし、加えて駅周辺にはだいたい東京・大阪などの大都市資本企業が入っていて、そこで買い物をすれば結局ほとんどのお金が都市部に流れていってしまい、地方が潤うというわけではない。 それに新幹線が通ったことで、その地域から人が出て行きやすいという状況(ストロー効果)を作ってしまっているという問題もある。 その他にも、地方創生のためにどれだけの補助金や税金が使われているか、同調圧力や好き嫌いで事業が進めたり、潰したりしていたり。 これらをただの「地方創生の現場ってこんな感じなんだぁ〜」という目で見ても十分に楽しめるけれど、自らが働いている会社や、自分ごとに置き換えて読んでみると、なかなか笑えないものも多い。 事業という大きさではないにしても、自分もゲーム実況をYouTubeでしていて、失敗という失敗はもちろんないけれど、見てくれる人が増えるための行動が出来ていないこととかを考えながら読んでしまった。 とにかくトライアンドエラーで、色々やってみたいですね。 個人事業主だと支援してくれる制度とかもあるっぽいんですけど、お金もらったあとの自分が怖くなるような本でしたね…、およよよよ。
    地方創生大全
  • 2026年2月28日
    ミニマル脳習慣
    なんかちょっとエンジンかかっちゃってるな、という日が増えてきた。 毎日ゲーム実況をしていくうちに、「もっとこうした方がいいかな」みたいな自分が思っている努力と結果のバランスが釣り合わないな、と感じる時がある。 それでも根はポジティブなので、「仕方ねぇ、やれることをやるしかねぇ」という気持ちで切り替えることができる自分は褒めてあげたいけれど、そうなると次はどこか「やり過ぎ」になってしまいがちだ。 一日に四本ゲーム実況動画を撮ろうとすれば喉も痛めるし、パソコン作業をやり過ぎれば首から肩にかけての神経痛を起こす。 でもやる気だけはあるという状態。 これがいわゆる「かかってる状態」である。 この状態は自分の視野を狭くすることがあるので、扱いに気をつけなくてはならない。けれど、かかっている状態だからこそ、出せるモチベーションも存在する。 どのようにすればこの「アツい」と「冷静」をうまく同居させることができるのだろうか。 ただこうやって「どうしたらいいのか」と考えている時間、大切らしいです。 「こうなりたい」 「こんな状態になったらいいのに」 と考えること自体が、 すでに脳にいい影響を与えている。 菅原道人『ミニマル脳習慣』p.11 私はお金持ちになる想像をよくする。 勘違いしないでいただきたいのは、「うまい肉を食って、イイ女を抱く」のような「お前は海賊か」といった妄想ではなく、人からこういうふうに見られたいとか、見てくれている人から頂けたお金でどんなことがしたいか(新しい機器を買うとか、旅行に行きたいとか)を考える。 人のために頑張って稼いだお金を使って何かをするって、めちゃくちゃ素敵なことじゃないですか? なんか、そんな妄想しちゃいますね。 こんないいイメージを持ったり、いい妄想をするだけで脳からはドーパミン(やる気を生み出してくれる脳内物質)が発生すると、この本には書かれていた。 なるほど、ここまで自分がゲーム実況を続けてこれたのは自分がいい妄想をたくさんしてきたからなのかもしれない。夢見がちと言われれてしまえばそれまでな部分でもあるだろうけれど。 本を読むこと自体も常にいいモチベーションで臨むことができている。そもそも、本を読んでいることがカッケェ〜と思っているので、そりゃ続けたくもなる。 で、実際に知識がついたり、メンタルのコントロールが上手にできるようになれば、本当にカッケェ〜人間になれる可能性だってぐんぐん上がるのだ。スッゲェ〜。 脳には、「面白いから笑う」だけでなく、 「笑っているうちに、面白く感じてくる」 という面もあるのです。 菅原道人『ミニマル脳習慣』p.42 これを読んだとき、嵐の相葉雅紀さんの言葉を思い出した。 「ひみつの嵐ちゃん!」という番組内で、学生さんの悩みに答えるという企画があった際に、「楽しいから笑うんじゃなくて、笑っていれば楽しいことがあるかなと思って笑っています」と答えていたのがとても印象的だった。 他人を見ていても、仏頂面をしている人であったり、つまらなそうにしている顔の人よりも、笑顔の人の方が話しかけやすいし、幸せそうに見える。 実際、人は口角を上げるだけで楽しさを実感することができるらしいので、気になった方はやってみよう。おれはもうすでに口角アゲアゲでこれを書いてます。怖いか? その他にも真似しやすい、小さな習慣がこの本にはたくさん書かれている。 脳のための、運動習慣、食習慣、ストレスのかからない人との付き合い方。 たまに思い出したように読むことで、「今日からこれを試してみようかな」という気持ちにさせてくれるので、ぜひ試してみてください。 おれの口角はまだアゲアゲです。 これを読んでくれたあなたもアゲアゲで行きましょう⤴︎
    ミニマル脳習慣
  • 2026年2月27日
    私が間違っているかもしれない
    私が間違っているかもしれない
    はじめはタイトルに惹かれただけだった。 「私が間違っているかもしれない」 ここ最近、人と話をしたり、SNSを見たりしていると、「正義」と「悪意」がフィルターを通すことなく吐き出される瞬間をたびたび目撃していた。 その度に私は「この人たちが言っている正しさは本当に正しいのだろうか」と思っていた。 それはときに、自分を守るため、他人を守る(守っている気になっている)ために振りかざされる正義、一般論であり、そこに本当にあなたが考え出した正義はあるのだろうかと考えてしまう。 誰かが誰かに「正義」を振りかざすとき、相手の「正義」は無視される。 そういった議論が行われた末に存在しているのは、そんな勝ち負けや、白と黒をはっきりさせなくてはいけないものなのだろうか。 「私が間違っているかもしれない」 この言葉は魔法の言葉だ。 その呪文は自らの「正しさ」を殺すものではない。 相手の「正しさ」を受け入れようとする姿勢だ。 人は誰でも、自分のことを多かれ少なかれ合理的、理性的で、現実的に物事を考えられる分別のある存在だと思っている。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.48 これらの違和感は慢心だ。 自分よりも知識のない相手、立場が弱そうな相手、間違いを犯した相手に対して、人は容赦なく正義を振りかざす。 私自身にだってそういう感情がゼロで、全く感じたことがないのかと聞かれれば、それは嘘になるだろう。 陰口や、悪口で、人との距離を縮めたことがないとは言い切れない。 しかし、その日の帰り道はどこか、胸に痛みを覚えたりもする。 「なぜあんなふうに言ったしまったのか」とか「むしろ相手に嫌われてしまったのではないか」「もしかすると今日話した内容が本人に伝わってしまうのではないか」など、負の感情が巡り始めてしまう。 何度もいうように、幾許かのそういった状況に巻き込まれたり、踏み込んだりしてしまうのは、人間社会で生きる以上仕方のないことである。 だが、自分を顧みることなく、相手の言い分を無視して、自分の正しさを主張し続ける姿勢に、納得することはできない。 誰かに対して「こうあるべきだ」と思ったからといって、その人がその通りの人間に生まれ変わったりすることは絶対にない。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.86 人にものを教えたり、ときには怒ったりするのはとても難しい。 皆誰しもが引用部分のようなことを、なんとなく理解しているからだ。 人には人に合った教え方や、怒り方、受け取り方があり、けれど、自分への責任の重さなども相まって、それらの気遣いを忘れてしまう。 むしろ、気遣う必要などない、というふうに思う人もいるかもしれない。 私は「こうあるべき」の「べき」の部分は、特段強く否定はしない。 「べき」の部分をどのよう伝えたら、相手は、相手なりの「べき」を感じ取ってくれるかが重要だと思う。 自分が「毎日勉強をするべきだ」と相手に伝えたいのであれば「毎日勉強しないことでのデメリット」などを自分の体験などを通して説明した方が相手に伝わるかもしれない。 相手を、自分が求める人間に仕立て上げようとするのではなく、相手の考えを受け入れたうえで、どのようにすれば自分の考えを伝えられるかということを意識するのが、コミュニケーションなのではないかと、私は思う。 自分に対して優しく寛容になれば、自然と周りの人たちにも同じように接することができるようになる。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.237 ここまでかなり他者に対しての言葉を連ねてきてしまったけれど、それは自分自身にも言えることだ。 とにかく自分を大切にする。 人にばかり向けている目を、自分の内側へと向けてみる。 自分は、自分が思っているほどまともではない。 だからこそ、そんな「まともじゃなさ」を認めてみる。 すると、相手の「まともじゃなさ」も自然も受け取れるようになる。 嫌な言葉遣いをするあの人も、あの人なりの生きてきた環境や、育てられてきた環境で培ってきた言語なのかもしれない。 そこに、「悪意」はないのかもしれないし、あるのかもしれない。 大切なのは、完璧を求めず、「自分はできる限りのことをしている」と考えるようにすることだ。また「他の人も同じように、できる限りのことをしている」と考えよう。 ビョルン・ナッティコ・リンデブラッド、キャロライン・バングラー、ナビット・モディリ(訳:児島修) 『私が間違っているかもしれない』p.238 しかし、それでも相手は相手なりに大変なんだと、認めてあげることで、今ネットで感じているようなモヤモヤを少しでも軽くすることができる。 まぁ、そもそも見なくていいという意見もあると思うけれど、さまざまな思考が渦巻いているSNSは、あれはあれで面白い。 受け入れない姿勢でSNSを活用するのではなく、受け入れた上で、どんな感情を抱いて、でも、「間違っているかもしれない」という一歩引いた目で見ることで、新しい景色に連れてってくれる可能性を、私は信じたい。 勝ち負けや、白と黒にばかり気を取られないように、色んな意見を取り入れつつ、生きていきたいものですね。
    私が間違っているかもしれない
  • 2026年2月26日
    透明なルール
    透明なルール
    どちらかというと周りに合わせるということをしない学生生活を送ってきた。 多分それは学校の雰囲気的なものもあったんだろうし、私が知らないところで繰り広げられていた可能性はいくらでもある。 ただ、高校の二年生か、三年生のときに、部活の同級生から言われた「お前は八方美人だ」という言葉を今でも時々思い出す。 「なんてことをいうんだこいつは」と思ったし、実際、心当たりが1ミリもなかった。 そもそも八方美人であることが悪いこととも思わないし、誰にでもいい顔できるやつはそれなりにすごいのでは、とすら思う。 まぁだからといって「おれ八方美人!?ありがとう!ひゃっほーう!」となれるほど私は達観していない。達観ってこういうことなのかも分からん。 ちゃんとそれなりにダメージも負い、その日から今日までずっと、その言葉を時々思い出しながら過ごしている。 とはいえ、その同級生に言われたことよりも、なにを持って「八方美人」と言われたのかが、私は気になっている。 今思えば同級生は、誰とでもお喋りできる私の性格に嫉妬心なるものを抱いていたのかも知れないし、衝突を避けようとする(そもそもしない)性格に対して懐疑的だったのかも知れない。 それならわりかし説明ができると思うのだけれど、私は基本的に周りに興味がなかった。 というと冷たいニュアンスが出てしまうだろうが、個人に対して「どんな食べ物が好きか」とか、「どんなアイドルが好きか」みたいな話には興味があるけれど、クラスにうっすらと存在しているヒエラルキーであったり、誰と誰が付き合っているみたいな話にはまったく興味がそそられなかった。 特段、そういう空気に嫌悪感を抱いていたわけでもなく、本当にどうでもよかったし、なんならそういう話が自分には舞い込んでこなかった。 多分そういう認識すらされてない存在だった。 あれ?悲しい話だったっけ?これ。 たまに学生時代の友人と食事に行くと「そういえばこないだ〇〇とも飲んで〜」みたいな話になり、「え!おれも呼んでよ!」というと「いや、お前〇〇たちとかとも仲良いから色んなところ誘われるでしょ」と言われた。 誘われてない!!!!!! 誰とも会ってない!!!!!!! このザマである。 そうなのだ。 さっきまで「俗世に興味ないのかっこいいと思ってる系」に見えたかも知れないけれど、違うんや。シンプルに大人になっても遊んでくれる交友関係の築き方をしてこなかっただけなんや。 そういう意味ではあの日言われた「お前は八方美人だ」といわれた理由が少しわかる気がする。 誰とでもフラットに話せる代わりに、誰とも深い仲にならない美人だと言われているのだ。 (よかった〜美人だった〜) まぁ、それはそれで楽なのでいいんですけどね。 はい、解決〜。 ってなるわけでもないけれど、やはり私としてはこの「八方美人」と言われたことは、それなりにすごいことだなぁと思う。我ながら。 出来たかも知れない大切な親友を失う代わりに、それなりにのほほんと生きる術が備わっているというのは、なかなか悪くない。 気づけば「八方美人」は「言われて嫌だった言葉」から「指針」のひとつとして考えられるようになっていた。 八方美人は生き方だ(ドンッ!!)。 たくさん友達がいるのも絶対楽しいし、家族や恋人とは違った楽しさが確実に存在しているはずだ。 けれど、人と緩やかに繋がりつつ、自分の時間を持つことが出来ている今の環境も大好きだ。家にいるのも好きだし。 人に合わせることは、大事だ。 同時に人と違うことを感じたり、その違うという気持ちを相手に伝えるということも、大事なのだ。 この物語の主人公は、クラスで「ぼっち」になることを恐れている少女。 本当は良い結果を残してきた実力テストにも本気で臨みたいし、今在籍(?)している一軍女子たちとの心の通わなさのようなものを感じている。 ただ目立つことも、ひとりぼっちになることも怖くて、ずっとモヤモヤとした感情を抱えたままで学校生活を送っている。 英文が自然に読めない。みんなの前でいい発音で音読するのが、なんだか恥ずかしい。 佐藤いつ子『透明なルール』p.29 実家には父親のレコードがあり、それを聴いて、歌ったりしているうちに主人公の英語のイントネーションは卓越したものになっていた。 けれど、「人にどう思われるか」が常に気になる主人公は英語の音読の時は周りに合わせて下手なイントネーションを使ってやり過ごしている。わかるぅ〜(わからない、発音がいいなんて羨ましい)。 「ね、萩野くん。あえて目立つようなこと、しない方がいいかもよ。いじられちゃうよ」 佐藤いつ子『透明なルール』p.35 主人公にとって、目立つということは死活問題だ。 けれど、それは学生時代だれもが感じ、悩みの種のひとつだったであろうことは想像に難くない。 周りを気にしてなかった私でも少なからず「八方美人」と言われたことにはダメージを負った。というか「周りは違うんだ」と思った。 「心ひとつって何それ。三十五人いれば、三十五通りの心があるんだから」 佐藤いつ子『透明なルール』p.78 急にこころ界隈のアンミカさん登場である。 体育祭のスローガンを決めているホームルームの最中に現れた不登校気味の転校生の登場により、主人公の常識は大きく覆される。 どうして、わたしは、素直に愛(著者注釈:転校生)のことが気になる、と言えないのだろう。 どうして、わたしは、愛の「三十五通りの心」に衝撃を受けた、と言えないのだろう。 どうして、みんなはどう思ったのか、と聞けないのだろう。 どうして、わたしは、瞳子(著者注釈:一軍女子)の考えることを、いつも先回りして予想しては、気をもんでいるのだろう。 どうして、どうして、どうして…。 佐藤いつ子『透明なルール』p.90 周りの同級生の主張も意に介すことなく振る舞うことができる転校生に、主人公は徐々に惹かれていく。 そして転校生の過去が告げられたとき、主人公は自分の中で作り上げていた「透明なルール」に気づくこととなる。 ひとりぼっちではいけない、中学生らしい行いをする、といった「透明なルール」から解き放たれることで、主人公は次第に周りが自分を受け入れてくれること、自分が周りを受け入れられるようになっていく。 これを読んだ私自身、自分に「透明なルール」を課していないか考えるきっかけになった。 ゲーム実況という活動をする中で「こういう言い方をしたら不快に思う人がいるかも知れない」とか「このやり方は良くないに決まっている」といった意固地な部分が出てくることもある。 もちろん前提として人を不快にさせないに越したことはないけれど、自分の気持ちを伝えたい場面では、しっかりと誤解なく伝えられるように努めてみたり、動画を見てくれている人のことを信じて発言してみようとか、そんなことを考えていた。 中学生の物語だったけれど、そんなことは関係なく、心のもやもやはいくつになったって抱えるもんだよなぁ、と10代の青春物語に触れて、10代の頃の自分を思い出したりして、面白おかしく悩んだり、考えたりしてたとさ。 ちなみに私の八方美人はネットではまったく機能しない。 SNSなどの顔が見えない人と話す方がよっぽど緊張する。 「気兼ねなく話しかけてください」と常に受け身な現在進行形の私であった。
    透明なルール
  • 2026年2月25日
    「書くこと」の哲学 ことばの再履修
    書き出しに迷ったので、とりあえず、「書き出しに迷った」と素直に書いてみることにした。 上の「書き出し」を書き出して、5分が経った。 なるほど、全然書き出せない。書き出したのに。 本を読み終えてすぐにnoteを開き、思ったこと、感じたことを書こうというモードに入ったにも関わらず、なんだかボケーっとしてしまう。 書きたいと思っているのに頭が空っぽになっていて、あ、今寝っ転がってるんですけど、スマホが重いなぁとか、部屋の明かりが眩しいなぁとか、そんなことばばかり考えてしまっている。 そもそも、書くことについて書かれた本の感想を書くということはとても難しいことなのかもしれない。確か前もこんな感じになったような気がするもの。 とてもややこしいことである。 書くことについてを書く人(著者)が、書くことについて悩んでいる人(読者)に向けて書いていて、それを読んだ私が書くことについて学び、学んだことを書こうとしている。 だからこの場合、自分とっての「書くこと」とはなにかを、私の頭の中で考えて、本の引用なんかも挟みながら書き進めていけばいいのではないだろうか。そうだ、そうしよう。 では、さっそく。 私にとっての「書くこと」とは、「視野」だと思っている。 うそです、いま考えました。 だけど、自分の中で腑に落ちた答えがこの「視野」だということを、今から、説明してみたいと思う。 これを読んでくれているあなたと、私自身にも。 そもそも書くことを始めたきっかけは、正確にいうと「本を読む」ことを始めたきっかけは、ゲーム実況をするにあたって、自分のゲームへの反応が一辺倒になりつつあるなぁと感じていたことにあった。 他のnoteでも書いたと思うけれど、実況動画を撮っていると、視聴者なら集中して見たいシーンでも、「ここは喋っておきたいぞ!」というところでお喋りを挟みたくなるタイミングがあったりする。 せっかく喋るのだから、芯を食っていたり、ちゃんとリアクションとして受け取ってもらえるものであったり、なによりそこのリアクションを楽しみにしてくれている人に伝わる表現をしたい、と思うようになったのが主なきっかけだ。 そこで本を読んで、感想を書く、せっかくなので日記も始めた、そういったことで少しでも表現力を高めよう、深めようと色々模索している。 そして書いていくうちに、今回のような「書くこと」について書かれている本を読んでいくうちに、これは「視野」を獲得、拡大するための下積みなのかもしれないな、と感じた。 ことばの使い方を学ぶこと、書くことを学ぶこと、言語表現を学ぶことの目的は、究極的には、自分が自分だからこそ書けることば、ある意味では自分にしか書けない文章を書けるようになることだと思います。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.17 本を読むということが新たな「視野」の獲得となり、書くということは新たな「視野」の拡大に繋がる。 この自分で出した答えを持ち続けながら、読むこと、書くことを続けていけば、努力の先に、なんとか、自分にしかできない表現が見つけられるのではないだろうか。 自分の文章のクセをある程度客観的に把握して、他者たちの文章との望ましい差異化の武器として利用可能か吟味すること。 ○多様性に埋没してしまわぬよう懸命に振る舞うこと。 ○「自分のことば」を書けるようになるためにこそ、「他人のことば」を読むこと、それもできればたくさん読むことが肝要です。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.87 本の感想を書いていると、結局この答えに行きつきがちになってしまうのだけど、やっぱり、とにかく、「他人の言葉」を自分の体に取り込んでいく方法が一番個性を出す方法なんだよなぁ、と感じる。 自分の個性を知る、ことも大切だけど同時に、相手の個性を知ることが自分の個性を知るひとつのきっかけとなるということである。 読みの円滑な流れを一瞬、止めるようなことばに出会ったら、そこを何度か読み返し、なぜ自分がそこが気になるのかを考えてみて、答えが出なくても、とりあえずそれを覚えておく。そこに生じた違和感は、その書き手の個性や才能を示していることもあれば、そうでなくても、そこにあなた自身の言語感覚が現れていることがある。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.108 上記のようなものの見方を、この本でしっかりと学ぶことができたのが、私の中ではかなり大きかったように思う。 確かに本を読んでいると、どうしても読み進められなくなる瞬間が訪れることがある。 理解できないわけではない、けれど、ちょっと読みづらさを感じる、読み飛ばしたいのに、なぜか惹きつけられるような感覚。 そうか、私は書き手が生み出した「違和感」や「個性」を感じ取っていたのか、ということに気付かされたのだ。 またひとつ「視野」が拡大された。 しかし、相変わらず書くことは難しい。 だけど、出会った本、一冊一冊から、段々と、新しい視野を獲得することができている、なんなら今回の本を読み、考え、もうすでにこれまでの経験が少しずつ力に変わりつつあるのではないかと実感が湧いてきたようにも思う。 あらかじめ全体像を描くことなく、だが最後には必ずや全体像が出現するのだ/させるのだという、もしかしたらいささか闇雲かもしれない確信(?)を胸に、とにかく書き進めていく。 佐々木敦『「書くこと」の哲学-言葉の再履修』p.207 今やっているゲーム実況の活動においても、書くことにおいても、未だ全体像、自分の中のゴールはまったくもって見えていない。 けれど、なんとかなる、なんとかする、という気持ちで臨みたい、臨み続けたい。 自分にとっての「書くこと」と「ゲーム実況をすること」は密接に関わり合っていて、もしかしたら同時にゴールできたりしちゃったりするのかもしれない。 そうなってくれたら、今日ここで頑張って文章を書いてた私を、めちゃくちゃ褒めてあげたいのである。
    「書くこと」の哲学 ことばの再履修
  • 2026年2月24日
    アリアドネの声
    「諦めたらそこで試合終了ですよ」 このセリフはマンガ『SLAM DUNK』でバスケットボール部の監督をしている安西先生の言葉である。 このセリフは気を抜くとどこからともなくやってくる。 学校や会社、SNSやビジネス書、安西先生は色々な場面で「諦めたらそこで試合終了ですよ」と発言しているのだ。 講演だったら年間にどれくらい稼げるのだろうか。 コメンテーターとしてテレビに呼ばれるときには名前の上に「諦めたらそこで試合終了ですよ」が空前の大ヒット!とか書かれるのだろうか。 そんな「諦めたらそこで試合終了ですよ」教徒の方々にこの本を送ります。 井上真偽さんの『アリアドネの声』です。 この小説の中では「無理だと思ったら、そこが限界なんだ」というセリフが繰り返し使われる。 ある日、とある計画で作られた地下都市に巨大地震が襲う。 その地下には目が見えない、耳も聞こえない、話すこともできない、三つの障害を抱えた女性が遭難している。 その女性を主人公の会社で取り扱っているドローンでなんとか救出するというお話だ。 え〜!無理だよ〜!な展開が、鬼畜かというほどに続くこの小説のジャンルはミステリなのだ。 著者は「探偵が早すぎる」や「その可能性はすでに考えた」の井上真偽さんなのでミステリなことに違和感は感じないけれど、災害もの、女性を誘導して脱出させるといういわゆる脱出もの、などの特徴からはミステリなのか?という疑問を持ちつつ読み始めたけれど、読み終わる頃にはこういうミステリもアリなのか、と思った。 主人公は女性の救出を通して、自分の過去と重ね合わせて、とある答えを導き出す。 俺はやっぱり、人間に「限界」はないとおもうよ。 だって人間には、本当に何が「無理」かも、想像できないのだから。 井上真偽『アリアドネの声』p.297 見えなくても、聞こえなくても、話せなくても、希望を胸に、前に進み続ける姿は、今頑張っている誰かの背中を押してくれる。 とにかく自分ができることを、できる範囲でやるのだ。 「無理だと思ったら、そこが限界なんだ」 安西先生のセリフとも同じようで、また違う。 このセリフを読んだとき、あなたはどのように受け取っただろうか。 その答えは小説の中に、そして、あなたの頭と、心の中に。
    アリアドネの声
  • 2026年2月23日
    自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学
    ゲームの中には自分に合った“難易度”を選択して遊べるものがある。 それは、「EASY」「NORMAL」「HARD」とか、「やさしい」「ふつう」「むずかしい」とか、「赤鬼」「妖鬼妃」「さくま鉄人」などのことである。 私は基本的に「NORMAL」を選択して遊ぶことが多い。 ノーマルと言われているくらいなのだから、制作者的に一般のゲームユーザーが遊ぶにはこれくらいで候、と決めてくれているのだろうし選ばない手はない。 しかし、我々が生きるこの世界はどうだろうか。 学校や会社では閉塞的な人間関係に疲れ、SNSのさまざまな意見に疲れ、繰り返すだけの毎日に疲れ、疲れすぎである。 人生の難易度設定は「HARD」である。 なぜだ。 初期値が「HARD」のゲームなんて認められない。そんなのクソゲーだ。「NORMAL」だ、「NORMAL」を連れて参れ。「EASY」でもよい、自動的に金が口座に振り込まれればなおよい。 そんな「メンタル戦国時代」の真っ只中にいる私たちはふと「虚無」を感じる。 がんばりたいのにがんばれない、もうどうでもいいや、なにもしたくない、なんの意味もない、そんなの関係ねぇ。 部屋でボーッとしてても時間は止まらない、残酷にも進み続けている。 だから、動かなくてはいけない。 けれど、頭と体のどっちかがいうことを聞かない。 そうなってしまったのなら、ようこそそこは「虚無の世界」だ。 「虚無の世界」にやってきてしまったあなたは、どうやってここから抜け出せばいいのだろうか。 そんなときは東洋哲学に手を出してみよう。 東洋哲学はインド、中国、日本などで産まれたもので、基本的には「どう生きればいいか」というのがテーマらしく、「答えがない」といわれがちな哲学だけれど、東洋哲学に関してはしっかりとした「答え」もある。 例えばインド哲学の有名人といえばブッダである。 ブッダは王子だし、めちゃくちゃお金持ってるし、頭もいいときてる。 なんか、顔もいいらしい。 全てにおいて恵まれていたはずのブッダですら、その実、半端じゃない虚無感に襲われていたという。 王子とはいうてもただの「恵まれた無職」だったブッダは「この人生にはなんの意味があるんだ?」「本当の自分ってなんだ?」みたいなことばかりを考えていた。 考えまくった挙句にブッダが取った行動とは「出家」である。 王子が家出して「出家」である。 「恵まれ無職」から「ホームレス」へと華麗なジョブチェンジを遂げたブッダは自分探しの旅をするために修行をしまくった。 中には「トゲで作ったベッドで寝る」とか「めちゃくちゃ髪の毛をむしりとる」とか「めちゃくちゃ息を止める」などといった体張りYouTuberのような修業すら存在している。 そんな苦行を6年間続けたブッダはふとこう思った「これ、もしかして意味ないんじゃね…?」と。 そのとき出会ったスジャータという女性におかゆをご馳走してもらったブッダは、回り始めた頭脳からある答えを導き出す。 それが「無我」だ。 それは「自分」とはただの「妄想」で、本当は、この世界は全て繋がっている。などと供述。 自分も、世界も、変わり続けていっているのに「自分を探す」なんて無茶をまだいってるんですか?といった話なのである。 そんなん苦しいに決まってるじゃん、と。 この「無我」が巡り巡って色々な考え方につながっていくのだが、そこは本書を読んでいただいて。 東洋哲学齧りたての私にはまだ噛み砕けていない部分が多いけれど、何よりも読み物として、この本はめちゃくちゃ面白いのだ。 著者であるしんめいPさんは東大卒で、有名企業にも所属したりしていたのにも関わらずチームプレイができずに退職。学生時代に先生から面白いと言われたことを思い出し、芸人を目指すも、自分が全く面白くないことに気づき、それも辞め。その後、実家に戻り子供部屋おじさんをしていたという。その間に離婚もしていたらしい。 なんて赤裸々な文章なんだ。 そんなしんめいPさんを救った東洋哲学、興味ありまくりである。 おかげさまでとても興味が湧いたので、別の東洋哲学の本もしっかり読み込んで、この本に戻ってきたいなぁ。 個人的には「インドの論破王」としんめいPさんが言っていた「龍樹(りゅうじゅ)」という人が気になっている。 初めての「推し」哲学者ができたかも。
    自分とか、ないから。 教養としての東洋哲学
  • 2026年2月22日
    乳と卵
    乳と卵
    学校で自分の体について教えてもらったのは、なんの授業だったか。 理科なのか、保健だったのか、そのどちらでもだったのか。 体が痛くなると焦ったように柑橘類を食べてみたり、陽にあたってみたり、いつもよりも長めにお風呂に浸かったり、肩をぐるぐる回してみたり、目を瞑ってみたり、うがい薬を使ってうがいをしたりしてみる。 痛くなるたびに、体と向き合おう、次は気をつけようと思っているのに、何ヶ月後には忘れていて、また同じ箇所を痛めていたりする。 この時、心と体は乖離している。 『乳と卵』は大阪から上京してきたホステスの母親と、言葉を発することを拒絶する娘を中心に物語が進んでいく。 母親は豊胸手術を受けることに取り憑かれており、しかしなぜ手術を受けたいのかという理由までは明かされない。明かされないけれど、夜の商売をしていることであったり、娘を産んだあとに小さくなってしまった胸について思うところがあったり、体ががりがりに痩せていってしまっていたり、思い当たる節はあるけれど、そのどれでもない可能性すらある。 話すことを拒絶する娘は会話をする際はノートにペンを走らせて筆談する。会話する時は小さいノート、日記を書く時は普通のノートだ。 日記にはこれから自分に起こる、生理について、卵子について、子どもについて、頭の中を整理するように書かれている。 わからないことが、わからない。わからないことへの不安。 そして母娘ともに、相手に対して不安を抱えている。 なぜ言葉を発しないのか、なぜ胸を大きくしたいのか。 二人の不安が解消されないのは、二人ともその不安の答えを持っていないからだ。 想いが溢れてしまうそのギリギリまで、母娘は不安になり、不満を抱える。 『乳と卵』は110ページくらいしかないのに、あまりにも濃い時間が流れていた。
    乳と卵
  • 2026年2月21日
    作家で食っていく方法
    頑張らない人が増えている世の中だからこそ、自分を自分で追い込める人のすぐ側にチャンスが転がっていますし、多くの人を追い抜くことができます。 今村翔吾『作家で食っていく方法』p.52 ほんまですか今村さん、信じていいんですか…! どうも、YouTubeでゲーム実況をやっている者です。お金が好きです。 ゲーム実況を毎日のようにやっている。 撮ったあとはもちろん編集作業があるのだけれど、この時間がとても苦手だ。 編集自体が苦手なわけじゃない。 その理由は私の「ボキャブラリーのなさ」をひしひし実感する時間だからである。 衝撃的な展開を迎えれば「マジかよ!」と言い、登場人物に共感するシーンがあれば「ほんとよねぇ…」と言っている。 まぁゲームのムービーシーンを見ている以上、余計なことは喋らないでほしいという意見も世の中にはある。 けれど、やっぱり喋りたくなってしまうし、それが自分らしさであるならばどんどん自分の音声を使いたくなってしまう(最悪マイクの音声を消すことはできるので、流石に邪魔すぎておれも嫌、と思うときは音声バーを下げることもある)。 ただ、せっかく本来喋らなくてもいいところで自分のお気持ちを表明しているわけなので、さすがにそこのコメント部分は芯を食ったことであったり、誰かの気持ちを動かすようなことを言いたい。 それなのに私の動画では「マジかよ!」「うわぁ〜」「いたぁぁぁあい!!」「ふぃ〜(煽)」「死ねぇぇえ!!!!!」が跳梁跋扈しているではないか。 あと、なんかすごい痛そうなゲームである。 そんなこんなでボキャブラリーを増やそうと思いたち、去年の12月ごろから毎日一冊以上本を読むようになった。 現状あまり変わったかどうかは自分でも定かではないが、動画冒頭の「前回こんなことがありまして〜」という説明は以前よりも上手くなった気がする。やったね♪ しかし、まだ足りない。 どうすれば誰かの足(耳)を止める表現ができるのか。 そこで『作家で食っていく方法』という本と出会った。 作者はNetflixで実写ドラマ化もされた『イクサガミ』を書いた今村翔吾さん。 タイトルの通り、作家で食っていくためにはどんな心構えが必要か、実際本を出したときの収益はいかほどなのか、ということがふんだんに盛り込まれた作家のリアルを知ることができる一冊だ。 帯には「全クリエイター必読‼︎」と書かれており「あれ?おれっちも呼ばれてる?」と感じ、あれよあれよという間にレジに突き出していたのである。 そして、冒頭の「頑張らない人が増えている」という一節と出会ってしまったのである。 なんて甘美で、運命的な言葉なのだろう。 この一節が実在する女性だったのであれば今すぐにLINEを交換して、食事に誘い、何回目かのデートには告白してお付き合いしたい。結婚まで見据える勢いである。 頑張らない人…多いんですか…?(チラッ) そういったって、ある意味私もその一角を担っているようにも思う。 自分がいくら努力を重ねていても、それ以上に頑張っている人がいて、今以上の頑張り、というものがなかなか想像できない。 しかしこの本を読んだあとは、いかに自分はこれまでに努力することを、努力してこなかったのか、ということに気付かされた。 まずはトレーニングをしていない。 (作家になるために)必要なことはたった一つ。読書量です。多読、乱読、とにかく数を読む。浴びるほど読んでください。(略)読んで得られるものがゼロの本はありません。 今村翔吾『作家で食っていく方法』p.19 当然読書量に関しては、私自身まだまだ足りないと感じている。 けれど分かっていながらも、「いつまで読み続ければ結果が実を結ぶのだろうか」なんてことを考えてしまうため、この文章に救われたような気持ちになった。 そうだよな、とにかく読むしかねぇ。 ゲーム実況も、とにかくやるしかねぇ。 新しいことに、どんどん挑戦していくしかねぇ。 「この本はどうしてヒットしたんだろう」「この作者はどうやってこの物語を思いついたのだろう」と、なぜを考え抜くこと自体に意味があります。 今村翔吾『作家で食っていく方法』p.20 そしてなにより、分析である。 自分で活動を始めてから、なかなか自分以外のゲーム実況を見る機会が減ってしまったように思う。 本来、ゲーム実況が好きだから始めたはずなのに、忙しさにかまけて見なくなってしまうのよねぇ。 自分もゲーム実況をやるようになったのだから、競合調査によって新たな扉が開かれるかもしれない。 これからはそんなドキドキとワクワクを持って、ゲーム実況を楽しむことができそうだ。 それと「目に映るものを全て文章化する」というトレーニングも少しだけやってみた。 なるほど、部屋の中にあるものを書き出すだけでも、普段そこに置いた覚えがなかったものが目につくようになったり、目の付け所を強化していくにはもってこいのトレーニングだと感じた。 もちろん、ここで書いているような読書感想文や、いつかエッセイも書きたいと思っているので、文章力の向上にも効果がありそうである。 作家でも、ゲーム実況でも、やはりクリエイターとして食っていくということのゴールは似ていたりする。 クリエイターであろうが、社会人的な常識、マナー、コミュニケーション能力は必須だし、ひとりだけでは成し得ない結果がある。 まだまだクリエイターなんて呼べるほどの実力があるとは到底思えていないけれど、YouTubeは収益化していて、お金をもらっている以上、見てくれる人を楽しませたい。 そのための弛まぬ努力は怠ってはいけないと、改めて身を引き締め直すことができた。 いつか自分の努力が実を結ぶまで、正解になるまで、今後も努力を続けていこう。 今頑張ってる人、みんな、今すぐ手を抜いてくれ。 おれがそこを出し抜く。マジでお願い。
    作家で食っていく方法
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