他者といる技法

67件の記録
- youy@youy2025年8月15日読み終わった1章があまり読み進められなくて積読になっていた。2章から5章を先に読んでも良いと思う。 「「わからない」時間をできるだけ引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう」(P296) 今の自分に必要な技法はまさにこれなんだ、と思った
- 大森弥希@mitsukiomori2025年8月14日買った読み終わった@ 電車レインやゴフマン、ベイトソンやブルデューなどを引用しつつ、コミュニケーションの素晴らしさと苦しさが論じられる。社会というのは素晴らしくもあり、困難を抱えているものでもある。他者とは、わかりあえることもあり、わかりあえないこともある。無理に十全にわかりあおうとすると、それは他者に対し、自分と完全に一致する人格であることを求めることになり、容易に差別や暴力へと転じる。けっしてわかりあえない他者とともに過ごすことが、すなわち生きるということだ。親本が出たのは一九九八年だが、第5章「非難の語彙、あるいは市民社会の境界‐自己啓発セミナーにかんする雑誌記事の分析‐」(pp195-252)は今でもよくみる光景であるし、第3章「外国人は『どのような人』なのか」(pp111-151)は外国人排斥の言説が跋扈する二〇二五年現在、古びるどころか重要さを増している。
- こここ@continue_reading2025年7月15日読み終わった文庫ではなく、1998年第一版の単行本の方を読んだ。 「コミュニケーションの社会学」との副題だが、ちょっと心理学的な要素を感じつつ読んだ。 私達は「理解の過小」を苦しみ論じるが、「理解の過剰」という苦しみも存在しそれはあまり論じられることがない。 理解し過ぎることや理解され過ぎることもまた差別や暴力から逃れられない状態に人を留めてしまう。 「わかりあえない」けれど「いっしょにいる」ための技法は、質問しあい、説明しあい、「はなしあう」ことだと著者は言う。 「わかりあえない」という状態は居心地が悪く出来れば避けたい状態である。そのとき、「理解」だけが解決するための技法ではないと。 わかりあえなくとも共にいることが出来るのなら素晴らしいし、必要なことだ。 わからなさを抱え他者と共にいるという事は、ネガティヴケイパビリティだろうと思う。
- 北村有(きたむらゆう)@yuu_uu_2025年5月8日読んでる@ ライトアップコーヒー 吉祥寺店P15 ずいぶんと不気味で疎遠にみえる存在である「他者」といっしょにいるということ、いっしょにいて「社会」を作るという面倒なことをすることは、そこから広がるすばらしい可能性と、それをするために生じる苦しみとを、ほとんどつねに同時に内包するのではないか。
- 檸檬🍋@mitternacht262025年3月6日読んでるこちらも他の本と並行して今読み進めてる。まだ最初の方。この本における社会学とは、という枠組みから興味深い。内側から語ることの難しさと大切さ。