たのしい保育園

150件の記録
- yuki@yk_books2025年8月21日読み終わったこまやかで、些細すぎて通り過ぎてしまいそうなことを滝口さんは丁寧に言葉にしてくれる、でも言葉がすべてでないことも、同じくらい大切にされていることがどこまでも伝わってきてあたたかい小説。ももちゃん。
- DN/HP@DN_HP2025年8月9日読み終わったまた読みたい少し遠くから話しはじめる。ゆるやかに話題を移しながら自由に。出来るだけ長く話していたいから。愛おしく大切に思う時間と記憶、かけがえない瞬間を丁寧に言葉にしていく。目に見えていたもの、聞こえていた音、思っていた、思い出していたこと。見えっこないもの、聞こえなかった音、想像するしかないこと。それらの連なり。ぜんぶなかったことにしようとはせずに、誰かに伝えたい、忘れたくない時間と記憶を、そこにたしかにあった/ある世界を話し続ける。 そこにいた/いるあなたの本当のところは想像することしか出来ない。目に前にいても、遠く離れていても、そうすることしか出来ない。あなたもわたしを想像することしか出来ない。それはお互いに侵犯的なことかもしれないけれど、そうすることしか出来ないのなら、そこには敬意や愛情が必要だ。他人を真摯に思い想像すること、思われ想像されること。その相互性の上で世界はなんとか成り立っている。 しかし一方で世界にはその敬意や愛情をもった相互性を「徹底的に拒む」ところに巣食う「悪意や暴力その無慈悲さ」が存在する。今も見せつけられている。歯痒いし恐ろしい。「ももちゃんのお父さん」もそれらを「ただおそれることしかできない」と思うけれど、愛おしく大切に思える時間と記憶があって、そこに敬意や愛情のある想像力を使って、人を宛先を思いながら書かれたこの小説がある。そのことは悪意や暴力、その無慈悲さに直接的に抗することではないかもしれないけれど、この小説を読めば世界がまだ敬意や愛、想像力、真摯な相互性の上で成り立っているとたしかに思うことが出来る。そこには希望がある。 「希望はギフトだ、誰にも譲り渡す必要はない。そして力だ」レベッカ・ソルニットも言っていた。この小説はわたしを宛先にはそんなギフトも届けてくれた、と二度目を読み終わった今はそう思い込んでいる。わたしたちにはまだ力がある、と元気も出てくる傑作。わたしも川べりを歩きながら、そんな小説の読後感を噛みしめたい。
- DN/HP@DN_HP2025年8月7日再読中心に残る一節「特にいまはその迂遠な語り方を無駄ともおかしいとも湯美さんは思わない。遠ければ遠いほど、言葉は多く、話は長くなる。長く長く話すために、できるだけ遠くから話しはじめるんだ。その気持ちがわかる。私もできるだけ長くあなたに話しかけていたいと思うから。」 『ロッテの高沢』p80 これは滝口さんの小説の書き方でもある気がするけれど、わたしもその気持ちが分かる、分かりたいから、あなたの話を出来るだけ長く読んでいたいと思うのだった。 また別のことを考えながら2回目を読みはじめたのだけれど、今はこんなことを思ったり考えたりしている。滝口さんの小説を読むとたくさんのことを思うし考える。改めて書こうとすると、忘れたりこぼれ落ちてしまうものがあるから、都度書き留めておきたい。
- DN/HP@DN_HP2025年8月7日再読中心に残る一節「たとえ見えっこないものが見えたり、聞こえるはずのない音が聞こえても、それをないものにしようなんて思わなくていい、全部口にしていいんだと思うようになった。」 『ロッテの高沢』p78 こんな文章を読むと、最近よく読んでいる実話怪談のことも思い出すけれど、滝口悠生さんの小説もそういうものをないものにせずに世界を“そのまま”描こうとしているのだと思う、というかそれは結構前、はじめて『死んでいない者』を読んだときから思っていた気がする。
- DN/HP@DN_HP2025年8月4日買った読んでる@ STORY STORY UENOようやく買った。やはり滝口さんの文章は心地が良い。この心地良さには覚えがある気がする、とTOMCのTRUE LIFEのカセットを流してみると、とてもしっくりきたのだった。
- DN/HP@DN_HP2025年8月4日心に残る一節「暴力を振るう方にはいくらでも理由や根拠があるのだろうけれど、それを受ける側にはそんなことはほとんど関係がなかった。悪意や暴力というのは一方的であることの極まりで、相互性を徹底的に拒むところに巣食う。悪意や暴力の無慈悲さをどう憎めばいいのか、ももちゃんのお父さんはわからない。ただおそれることしかできない、と思う。」
- DN/HP@DN_HP2025年8月4日読んでる『連絡』という一編に、娘を、今抱いているその体を大切に思うと同時に、その体を守れなかったら、無差別的な悪意や敵意を向けられてしまったら、と想像し彼女の死を思い描く、そして現実に、この世界ではそうやってあっけなく命が途絶えてしまうことを思い、その後に見上げた公園の空に高く上がる凧を見て、ガザ地区ラファの難民キャンプの報道思い出す、というシーンがある。 滝口さんの書く小説、文章には明るく軽やかな印象を持つことが多いけれど、このシーンが書かれる数ページにはトーンが下がって重みを感じた。小説は全てそうなのかもしれないけれど、「今」書かなければというような切迫感がある、とも感じていた。 『長い一日』にある「小説というのはそうやって全てを記録できないこの現実を、言葉で書き換えて読んだり話したりできる形にするものなのか」という印象的な一文を思い出す。ともすれば思い出すことが出来なくなってしまうかもしれない父と娘の記憶がそうであるように、このシーンもまさに言葉で書き残し「読んだり話したり」するべきシーンなのだ、という気がした。
- Yamada Keisuke@afro1082025年7月27日読み終わった滝口さんが保育園を題材にした小説。文芸誌で連載されていことは知っていたが、単行本になる日を待とうと思い、情報をシャットアウトして待った結果、ついにその日がやってきた。以前にポッドキャストで育児、保育に関する話を伺っており、その時点で相当オモシロかったわけだが、それが今回小説という語り口になることで新たな魅力がふんだんに詰まった最高の小説だった。 主人公は、ももちゃんという子どもと、そのお父さん。各話が短編として独立しているものの、登場人物は同じなので、連作としても読めるようになっている。植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』でその片鱗を見せていた子どもに対する解像度の高さが本著では存分に発揮されている。テクノロジーの進歩で、簡単に写真や動画で子どもの姿を記録することは可能になったが、改めて文字で目の前で起こっている子どもの様子を言語化されると、そのダイナミックさ、ひいては生命の尊さまでリーチするような厳かな気持ちが湧いてくる。 子育てをする身からすれば「子どもあるある」がふんだんに詰め込まれているとも言えるわけだが、その「あるある」の解像度は、よくある子育てエッセイとレベルが一段違っている。それは子どもを日々育てる中でなんとなく考えているが、言語化できていなかった思考の残滓を滝口さんが拾い集めて、言葉にしてくれている、そんな印象だ。特に「保育園」を題材として取り上げていることはその象徴のようだ。 保育園は預けている立場からすると、育児においてかなりの割合を占有するわけだが、自分が育児主体ではないので、保育園での育児について深く考える機会が少ない。そもそも成長速度を含めて日々が怒涛すぎることもある。そこを丁寧にすくいとり、保育園と共に育児を行う様子とその意味をここまで深く描いたものはないだろう。そして、保育園に子どもを預けたことのある人がもれなく感じたことのある、保育園という場所、保育士という職業に対する圧倒的な尊敬と感謝の気持ち、全面的肯定が小説に落とし込まれているのだから、たまらないものがあった。 〇〇ちゃんのお父さん/お母さんという呼び方に対して、アイデンティティを尊重する観点でネガティブに捉えられるケースもあるが、本著では子どもを持つ登場人物は皆、(子どもの名前+お父さん、お母さん)という形で表現されている。それは保守的ということではなく、あくまでここは子どもの社会なのだ、という宣言のように感じた。そして、それは物語上、区別するための便宜上のものでしかない。本著内で言及されているとおり、保育園に通っていると、子どもが誰に帰属するかは本質的には関係なく「保育園」という共同体に集まった大人たち全員で子どもを育てているのだという認識があるからだ。核家族化、人間関係の希薄化などにより地域ぐるみの子育ては減少していると嘆かれて久しいが、本当にそうだろうか。家族の在り方も20世紀から変化している中で「保育園」が、一種の育児の共同体を担保している可能性について改めて認識することができた。 最後にある「連絡」という話は、これまでの滝口さんのスタイルが最も色濃く映る。そこへ子どもに対する高い解像度の視点が入り込んでくることで、これまでの作品とは違った印象を持った。たとえば、ガザ虐殺について言及されているが、それが子どもたちが公園で遊んでいる最中に挟まれることでまったく他人事ではなくなる。また、ギスギスした現代社会において、誰が何をしてもいても気にしない一種のユートピア的存在としての公園という空間の多様性が、滝口さんの得意とする視点遷移と共に描かれており、その相性が素晴らしかった。保育園や公園といった場所の存在を言祝ぐような小説だった。
- 九日@kokonoka2025年7月23日読み終わったわたしはこの先も育児をすることはないんだろうけど、2〜3歳の子どもが近くにいる世界の愛しさを体験させてもらったような。柔らかくて鮮やかで優しくて、こういう風に生活を記録してみたい。 この著者の本初めて読むんだけど、さらさらと視点が変わるのが面白くて慣れると心地よかった。
- konsai@ehikh62025年7月19日読み終わった借りてきたカルガモに言葉は通じないけれど、言葉が通じないから話せることがある。 ひとりで散歩しているだけなら、そんなに植物のことは気にならない。歩いているうちに考えごとをし始めて、植物が目に入ったとしてもこの花の名前はなんだろう、とまではなかなか思わない。でもももちゃんと一緒に歩いていると、ももちゃんがまだ言葉を話さずとも、目の前にあるものを一緒に確かめ、知り直すみたいに、これはサクラだね、これはタンポポだね、と声に出してももちゃんのお父さんはももちゃんに伝えることになる。そうすると名前のわからない本や植物は名前を呼べないから、これはなんだろうね、と言いながらももちゃんのお父さんは、その名前を知りたいと思う。ひとりで歩いていてもそんなことは思わなかったかもしれないけれど、ももちゃんという言葉を向ける先があることでそう思う。
- Ryu@dododokado2025年7月14日買った読んでる読むのがひたすらにたのしい小説。町屋良平の『生活』しかり、同じくらいの時期にデビューして、あるキャリアに差し掛かった男性作家が、(この言い方は正確ではないが)“弱い父親”を書き出すことが少し気になるけれど、ともあれほんとうにおもしろい。
- 阿久津隆@akttkc2025年6月28日読み終わった帰りの電車で座ると隣に座っているおじさんが本を開いていたので僕も本を開いた。隣のおじさんのは古めかしい感じのする単行本で僕は『たのしい保育園』を開いてももちゃんはまだ一生懸命名前を書いていた。 p.210,211 ももちゃんは先に書き上げた文字の左隣に、また横線を引きはじめた。さっきは左から右へ、通常の書き順と同じ向きで線を引いていたが、今度は右から左へ線を引いて、二本めの線も右から左へ鉛筆を動かし、やはりさっきのようにゆらゆらと揺れるその線のあいだに生まれた空間を今度は川として、そこにはいつも保育園に行く途中に見るカルガモがいて、鯉がいて、白鷺がいる。ももちゃんはカルガモを見下ろしながら川に架かる橋を渡る、その橋がこれ、と縦線を引き、橋を渡れば公園の入口があるのでそこから公園へと入っていく。夕方の公園には犬がたくさんいて、この近辺に暮らす犬とその飼い主たちが全員公園に集まっている。 ももちゃんたちが公園に行くあいだに隣のおじさんは本を開いたままうとうとし始めて、しばらくすると起きてまた本のページをめくった。何かが気になってちらっと左を見てみるといま読んでいるのは「誕生日の反乱」という章だと知れた。ももちゃんは「ふたつあるから、一個お母さんにあげてくる」と言って隣の部屋に行ってももちゃんのもをひとつあげるようだ。お母さんはお礼を言い、「いいの、大事じゃない?」と聞いてももちゃんはふたつあるしまた書けるから大丈夫だと言った。胸いっぱいで読み終えると調布に着いた。
- 遠足のお弁当@ensoku2025年6月24日読み終わった読書日記ももちゃんのも、いっこお母さんにあげる。ふたつあるから。👈かわいすぎる。 世界はひとの暮らしで出来ている、みたいな、隣にいるひとや、すれちがったひとや、話で聞いたひとたちにも歴史があり生活がありみたいなことを書かせたら本当に天才だよなとおもう。滝口悠生の文章をよんでいると、人間ってこんなにいるんだ〜とおもう。普段人間を人間として認識していない化け物みたいな感想……。
- さとう@satoshio2025年6月17日読み終わった@ 自宅「取り返しのつかないこと、やり直しのできないことがあることを娘はきっとまだ知らない。」 「そこには希望しかない。というか絶望がない。すべてのことに終わりがない。」 「本気でそう考えているからこそ、こんなにも泣き止まず、求め続けることができる。」 私はいつ絶望を知ったのだろう。 今は『緑色』のエピソードがこころにきたけど、育児を経験したり、子どもの成長を見守る側に立ったりしたらまた受け取り方が変わるんだろうな。
- orange.m@orange102025年6月12日読み終わった@ 自宅ももちゃんのお父さんの視点を通して、娘の保育園時代のあれこれを思い出した。鼻がツンとするようなシーン、付箋をつけたくなる「そうそうこの感覚わかる」という箇所がたくさんあって。 幼い子どもと暮らすことは、大人の「当たり前」をいったん解体して向き合うことの連続だと思う。そのかけがえのなさ、うれしさもさみしさも不安もこの作品には詰まっていて、胸にギュッと抱きしめたくなる。
- 鳥澤光@hikari4132025年6月8日読み終わった再読再々読読む本読んだ本2025二巡。 収録されている「ロッテの高沢」はじめそれぞれの短篇での体の話が本当におもしろくて、というのはクニャクニャからだんだんと硬さと柔らかさが増えていくような甥たち姪たちの感触を思い出すのもあるけど、それ以上に、いま3匹の猫と暮らしていることで(そしてかつて2匹の猫と暮らしたことで)はじめてとるポーズ(前屈みになって自分の膝に肘をついて過ごすとか、胡座をかいて両膝をすこし立ち上げてハンモックにするとか)や「腕がせめてあと1本多ければ……」という毎日やってくる思いとかに置き場が見つかったように思えるからかもしれない。
- ズゴ子@zugocco2025年6月1日読み終わったわたしも、ももちゃんだった ももちゃんのころ、うまく伝えられないもどかしさを、まわりの大人たちが察してくれたり言語化してくれたんだよね、てなことを思い出したりあらためて知ったり ももちゃんのお父さんにはなれないけれど、ももちゃんのご近所のおばさんにはなりたいな
- なずな@shrpherds_purse2025年5月30日読み始めた幼少期の思い出は、なまぬるいふわふわに包まれている。いつまでも暮れない夕日のようなぼんやりした記憶。その中を覗き込んでいるような気持ちになるなあと思いながら、読んでいる。
- riu@riufish2025年5月29日読み終わった@ 本の読める店fuzkue初台わたしにはfuzkue本がある 読む前からこれはfuzkueで 読み始めて あっfuzkue本だ 大ファン滝口さんはいっつもfuzkue やわくやわく 読書の時間
- 鳥澤光@hikari4132025年5月13日読む本読んだ本2025あの人に贈りたい本信号が変わっても立ち止まって読んでいたい本。視点が受け渡されていく具合にワクワクするし海老反りしたくなる(なる?)。
- 3_analog@3_analog2025年5月2日読んでる冒頭10ページくらい読んで、あ〜これこれ、滝口さんだなぁ!と思った ちょうど良い温度のお風呂に浸かってるような安心感が滝口さんの文章にはある
- あつこ@atsuko_books2025年5月2日気になるわが子のたまらなくかわいいこの時期を「忙しい」と引き換えにしてしまったことを後悔するんじゃないか……と思って遠巻きに見ていたのだけれど、やっぱり気になるのでメモ。 記憶の奥底にある毎日を思い出すきっかけになるかもしれないよね。
- riu@riufish2025年4月28日買った読み始めた@ 本の読める店fuzkue初台Readsで発売日を知って まちわび まちさび 滝口悠生さん 普段行かない大きな書店 これもわたしのからだになる 愛しいももちゃん お父さんだって
- しの@shino32025年4月28日気になるいま、植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』の滝口悠生さんの育児についての話がおもしろすぎるあたりで積んでおり、この本も絶対おもしろい予感しかない(でも積読多すぎて手を出せない
- ON READING@onreading2025年4月26日読み終わったひと足先に読ませていただいたのですが、発売前からいろんな人に「めちゃくちゃいいんです!」「話したいから早く読んで!」と言いまくっていたこちら! 二歳のももちゃんとももちゃんのお父さんは日々、川べりや公園を歩く。過ぎていく時間と折々の記憶は、いつしか祈りへと昇華していく――。 父娘のなにげない日常を様々な角度から描き、いままで言語化されていなかった「育児」のディティールが驚くべき解像度で迫ってくる、まったく新しい「父」の連作短編集。 保育園までの道、鳥の名前、植物の名前、すれ違う人びと、保育園の先生たち、登園時の連絡帳、ふいちゃんとあみちゃん、お母さんへのプレゼント。「ももちゃんのお父さん」になって、世界と出会いなおすこと。 もう大人になってしまって、梅と桃の違いも、十秒前と一年前の違いも知ってしまった私たちは、ももちゃんのようには世界を知覚することができない。だけど、ももちゃんの視点を通して想像することはできるのかもしれない。 この小説は、ももちゃんを見ている「ももちゃんのお父さん」を通じて、私たち読者も追体験することができる。 世界は、なんて色鮮やかなんだろう。私たちは、それを本当に知っているのだろうか。 読んでいる間、ほんとうに幸せでした。今も、思い出すだけで心が震えます・・・。 植本一子さんとの往復書簡『さびしさについて』もあわせてどうぞ。おふたりの子育ての話がたくさん出てきます。 さらに言うと、この感覚は『世界をきちんとあじわうための本』(ホモ・サピエンスの道具研究会著/ELVIS PRESS)とも通じているな~、と思います。そうやって、あれもこれもといくつもの本につながっていく。これこそが世界。いろんな本の隣に置いて、ずっとずっと何度も読みたい一冊です。